2010年6月9日 未明の宮台真司先生のつぶやき

メインテーマは、「最小不幸社会」です。
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Nami Aikawa @Epitaphchaos

「任せる政治から引き受ける政治へ」を提唱なさっているのは、宮台真司さん @miyadai です。 RT @dawnpurple:鳩山首相がこだわった新しい公共の概念と、神保哲生さんの「引き受ける政治」。どちらにも共通するのは、賽は我々に投げられていると言うこと

2010-06-08 00:08:40
dawnpurple @dawnpurple

うーん、検索しても神保哲生さんの記事ばかり。。。また調べてみます。ご教授ありがとうございました。 @Epitaphchaos: 「任せる政治から引き受ける政治へ」を提唱なさっているのは

2010-06-08 00:27:24
Nami Aikawa @Epitaphchaos

宮台さん @miyadai さんのブログでも【「任せる政治」から「引き受ける政治」へ 「小さな国家・小さな社会」でなく「小さな国家・大きな社会」へ】とあります。 「マル激」が生んだ偉大なスローガンなんですね。RT @dawnpurple:うーん、検索しても神保哲生さんの記事ばかり

2010-06-09 00:18:03
宮台真司 @miyadai

最初に使ったのは僕です。神保さんにも使っていただけるようにお願いしました。お手間を取らせているようなので申します。RT @Epitaphchaos: 宮台さんさんのブログでも【「任せる政治」から「引き受ける政治」へ 「小さな国家・小さな社会」でなく「小さな国家・大きな社会」へ】

2010-06-09 01:53:53
宮台真司 @miyadai

菅さん主催の研究会で僕が造語。RT @nori57th: ご参考までに宮台先生のブログでの言及です。http://bit.ly/cwFeLX RT @harutani: 残酷さの回避こそが唯一の共通善というのがローティの主張。RT 最小不幸社会か…菅さんはロールジアンなのかな?

2010-06-09 01:59:35
宮台真司 @miyadai

[承前]趣旨はこの通り。RT @YAMADA_AKR: …「何が幸いかは、個人ごと共同体ごとに違うはず。でも痛いのは嫌、苦しいのは嫌、死ぬのは嫌、という具合に、幾つかの不幸については立場可換が成立しやすい」 http://ow.ly/1VHC2 RT

2010-06-09 02:00:53
宮台真司 @miyadai

そうですね。2003年には僕は既に「最大多数の最小不幸」を大々的に使用。http://bit.ly/cHf8ao RT @fuzitaca: 「最小不幸社会」 @miyadai さんが提唱していたと記憶しています。こちらが参考になる… http://bit.ly/cHf8ao

2010-06-09 15:06:38
宮台真司 @miyadai

大学院生時代にマーケットリサーチ会社の取締役をしていたのもあり、造語は比較的得意です。でも、山田昌弘氏には及びませんね(希望格差社会とか婚活とかパラサイトシングルとか)。まぁ山田氏は現象を名付けておられるので、僕の「政治学的な概念の縮約」とはポピュラリティが違って当然ですが。

2010-06-09 02:04:22
宮台真司 @miyadai

ベースはローティ。RT @YAMADA_AKR: この表現は昨今の政治哲学の議論に則ったもの…「何が幸いかは、個人ごと共同体ごとに違うはず。でも痛いのは嫌、苦しいのは嫌、死ぬのは嫌、という具合に、幾つかの不幸については立場可換が成立しやすい」 http://ow.ly/1VHC2

2010-06-09 02:06:51
宮台真司 @miyadai

無知のベール下で、最悪の基本財バスケットの組み合わせを回避すべく、マクシミン戦略(最悪回避戦略)を皆が採用する結果として…というロールズの「公正な秩序」構想には「最小不幸」のニュアンスがないとは言えない。またウォルツァーには明白に「残酷の回避」(のための先制攻撃)の論理があります

2010-06-09 02:11:37
宮台真司 @miyadai

[承前]ウォルツァーの議論は、ウェーバーの政治責任論(政治家の責務は、市民の法を守ることよも、市民の法を守ることに意味があるような社会を守る[ために場合によっては市民の法を逸脱する]こと)を下敷きにする。ウェーバーこそが残酷回避≒最小不幸化こそが政治家の責務だと述べたという面も。

2010-06-09 02:21:21
宮台真司 @miyadai

[承前]ウェーバーの議論は、コイノニアの公共善のために、感情や欲望に徹底的に抗ってロゴスに基づく意思を貫徹すべし[あるいはそれをなし得るよう自己陶冶せよ]という『国家篇』における哲人王の議論を下敷きに。そこでの自己陶冶論を受けたアリストテレスの議論を下敷きにするのがサンデルです。

2010-06-09 02:27:37
宮台真司 @miyadai

ちなみに、本日の首都大での学部ゼミは、全著作を通じたプラトンを、レオ・シュトラウスに従って、プラグマティストとして読み解く[アテナイ復興のために敢えてホラを噴いた男として再読する]という課題でした。こんな高度な内容のゼミに、よく大勢の学部学生がついてくるものです。

2010-06-09 02:33:01
宮台真司 @miyadai

国法学・国家学における主権の概念化にウェーバーの議論が大きく影響すると考えたのがシュミット。RT @mayuqix: そしてカール・シュミットにつながる、という流れでしょうか。 RT @miyadai:ウォルツァーの議論は、ウェーバーの政治責任論(政治家の責務は、市民の法を守るこ

2010-06-09 02:36:45
宮台真司 @miyadai

本日の院ゼミのほうは、国法学・国家学における主権や基本権の解釈学的[価値命題的]理解を、社会科学における機能的[事実命題的]理解に置き換えようとするルーマンの試みが、実はドイツ行政学における価値命題導出という目標を、新カント派的科学公準をクリアするように延命させる工夫だという逆説

2010-06-09 02:41:40
宮台真司 @miyadai

また午前中1年生向け社会意識論の講義は、1970年以降の自動車ブームの変遷が、音楽ブームの変遷と厳密に対応することを証明した上、車ならびに音楽のコミュニケーションツール化が[ツールとして役立てば車や音楽でなくてもいいことを通じて]90年代後半に車と音楽の同時失墜を招いたことを示す

2010-06-09 02:50:57
宮台真司 @miyadai

いいえ。『サブカル神話解体』では「差別化から体感化への流れ=脱コミュニケーション化」を否定的に評価したのとは逆に、講義ではこの流れがプレミアムカー&プレミアム音楽の質を上げたと肯定しました。RT @gonna55: @miyadai 音楽産業だけでなく音楽の質も失墜したのですか?

2010-06-09 03:00:27
宮台真司 @miyadai

あっRT @basyousan: プラトンと宮台さんが重なるw RT @miyadai: ちなみに、本日の首都大での学部ゼミは、全著作を通じたプラトンを、レオ・シュトラウスに従って、プラグマティストとして読み解く[アテナイ復興のために敢えてホラを噴いた男として再読する]という課題

2010-06-09 07:40:02
宮台真司 @miyadai

「帝国(国威)の象徴:艦のメタファ」→「未来の象徴:飛翔体のメタファ」→「家族の象徴:冷蔵庫のメタファ」→「自己の象徴:ファッションのメタファ」。RT @Brother_Nob: この「コミュニケーションツール化」…以前は車や音楽は、社会意識論的には何と捉えていたのでしょうか。

2010-06-09 07:47:07
宮台真司 @miyadai

[承前]僕の時代区分で言えば[〈秩序〉の時代 →〈未来〉の時代 →〈自己〉の時代 ]に緩やかに対応。これは見田宗介の[ 理想の時代 →夢の時代 →虚構の時代 ]にほぼ対応。そして〈自己〉の時代≒虚構の時代は、自己のホメオスタシスのために現実と虚構ないし物と情報を等価に利用する時代

2010-06-09 07:51:15
宮台真司 @miyadai

[承前]この利用の仕方について[現実の虚構化=演出化]つまり現実をゲームのように生きるナンパ系、「虚構の現実化=異世界化]つまりゲームを現実のように生きるオタク系に分岐。96年からのナンパ系失墜を挟み、オタク系内部が[現実の虚構化]のバトル…系、[虚構の現実化]のセカイ系に分岐。

2010-06-09 07:56:06
宮台真司 @miyadai

[承前][現実の虚構化/虚構の現実化]が[ナンパ系/オタク系]だった時代は、車や音楽がナンパ系のコミュニケーションツールだった。ところがナンパ系が失墜、オタク系が地位上昇し、[現実の虚構化/虚構の現実化]が[バトルロワイヤル系/セカイ系]と分岐した96年以降、車の時代は完全終焉。

2010-06-09 07:59:07
宮台真司 @miyadai

僕が昨日ツイートした「差別化→体感化」とは車が象徴(シンボル)だった時代の終わりだとも言えるし、〈自己〉の時代の深化に従って富裕層に限って車がファッションのメタファから自己認識のメタファに変化「しうる」時代の始まり=プレミアムカーの時代の始まりとも言える。この点、日本車は全くダメ

2010-06-09 08:05:50
宮台真司 @miyadai

[承前]意味論における車の終焉は、より広くビークル(乗り物)の終焉を意味していて、さらにそれは建築の終焉[ディスコからクラブへ=オシャレなハコからコミュニケーションへ]とも結びつく。ビークルと建築と音楽の「最後の時代」は、共通してコミュニケーションツールとしての盛り上がりだった。

2010-06-09 08:12:51
宮台真司 @miyadai

[承前]そして昨日ツイートしたように、どんなに盛り上がっていると見えても、コミュニケーションツール化自体、実は終焉の始まりだった。なぜなら、コミュニケーションツールは入替可能性と流動性が極めて高く、早晩、別のアイテムに取り替えられるしかないから。十年前、車の終焉についての講演から

2010-06-09 08:17:40