籠原さんの卒論ツイート(4/16)

まとめました。
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籠原スナヲ @suna_kago

東浩紀『存在論的、郵便的』を卒論のために再読。従来のデリダ観(第一期で示した脱構築の理論を第二期では実践に移した)を覆した。彼には大きく分けて二つの脱構築(「論理的、存在論的脱構築」と「郵便的、精神分析的脱構築」)があり、第二期では後者の脱構築が全面化したのだ。 #卒論

2012-04-15 22:09:54
籠原スナヲ @suna_kago

個人的に卒論を書く上で参照したいのはやっぱり、前半で東氏がデリダの転回(第一期から第二期へ)を柄谷行人の転回(『内省と遡行』期から『探究』期へ)になぞらえているところ。柄谷もまたデリダのごとく、一つ目の「脱構築」から二つ目の「脱構築」の全面化に移ったと捉えられるわけだ。

2012-04-15 22:21:10
籠原スナヲ @suna_kago

(1)両者を並べたうえで、重要な問いを東氏は発している。「ではなぜ柄谷はデリダのようなテクストの戯れを書かず、論理的な文章に留まったのか?」ということだ。それに答えるためには、彼を取り巻く「日本語」の諸条件を詳しく見ていかなければならない、といったヒントも記されている。

2012-04-15 22:29:53
籠原スナヲ @suna_kago

(1)思うに、その問いには柄谷自身が『日本精神分析』で答えているのではないか。彼は日本人の主体の曖昧さを、ラカンの精神分析等をもとに日本語の構造自体に見ている。エクリチュールの強い日本語では無意識が可視化されており、初めからラカンが描くような主体は脱構築されているのだ。

2012-04-15 22:42:49
籠原スナヲ @suna_kago

(1)日本の主な知識人が哲学者ではなく批評家だった理由が、ここに結び付けられるだろう。日本精神とは、外来のものを「つくりかえる」(芥川龍之介)ような主体のことなのだ。柄谷の脱構築はしたがって文章そのものではなく、文芸評論として現れたのではないか、という仮説が立てられる。

2012-04-15 22:49:49
籠原スナヲ @suna_kago

(2)他方で、東氏は第三期のデリダ(テクストの戯れから政治へ)も『探究3』以降の柄谷もあまり評価せず、理論としては後退、否定神学化してしまったと述べて終えている。とすれば私が考えなければならないのは、まさにこれら「二つ目の転回」についてではないか。なぜそれは起きたのか?

2012-04-15 22:57:08
籠原スナヲ @suna_kago

(2)これに対して様々な時代背景(湾岸戦争など)を読み込み、「デリダも柄谷も政治や現実に目覚めたのだ」と解釈することはできる(実際、宇野常寛氏は柄谷を含む90年代初めの知識人をそう解釈し、否定的な評価を下している)。だが、それは以前のデリダや柄谷を夢想家扱いしかねない。

2012-04-15 23:08:15
籠原スナヲ @suna_kago

(2)むしろ私は、柄谷は「他者」を、郵便的脱構築の「転移」を、実際の批評家との「責任=応答不可能性」の関係として置いたのではないかと考える(デリダに対するサールのように?)。すなわち、彼は脱構築される側としての主体、他者としての主体を引き受けたということなのではないか。

2012-04-15 23:19:51
籠原スナヲ @suna_kago

つまりこうだ。「90年代以降の柄谷行人にとって、郵便的な他者とは他の誰でもなく東浩紀氏だったのではないか?」。だとすれば私は柄谷の思想をもはや単独で捉えず、東氏との緊張関係のなかで読み直さなければならないように思われる。氏は中上や浅田よりも彼にとって致命的な他者だった。

2012-04-15 23:31:21