「茂木健一郎氏が観た名人戦第2局一日目(控え室)」

まとめました。
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茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さんがコップを置く。あー と言いながら、けがをして包帯をした右手を額に当て、それからほおづえをつく。今度はあごに手を当てる。指をくちびるに。めまぐるしく姿勢が変わる。盤面に向かって、首をひねる。しかし、まだ指さない。森内さんの金が、ダモクレスの剣のように羽生さんの飛車の上に。

2012-04-24 16:19:44
茂木健一郎 @kenichiromogi

森内さんが羽生さんの顔を、下からまばたきをしながら見つめる。審判をくだすふくろうの神さまのよう。羽生さんが、左手で自分の髪の毛をかきあげて、額を光の下にさらした。森内さんが、盤面と羽生さんの胸の間あたりの、虚空を見つめている。姿勢を改める衣ずれの音と、羽生さんの漏らすため息と。

2012-04-24 16:22:20
茂木健一郎 @kenichiromogi

記録係が、「羽生先生、三時間使われました」と宣言する。「はいぃ」と羽生さんが沼から上がるガスの泡のような声で答える。羽生さんは、ほとんど立ち上がらんばかりに足を組み替え、糸で盤面に引っ張られているかのように前傾する。羽生さんは、まだ指さない。森内さんのまばたきが、また増えた。

2012-04-24 16:24:17
茂木健一郎 @kenichiromogi

うつむく時、羽生さんの脳裏にはどんなヴィジョンがあるのだろう。いつでも、将棋のことを考えると浮かんでしまうから、車を運転するのをやめた。いつか、羽生さんはそう話してくれた。思考のヴィジョンを映す背景となる現実世界のスクリーンは、対局室のあらゆる方向に存在する。その自由度。

2012-04-24 16:25:47
茂木健一郎 @kenichiromogi

解剖の死体は、翌日来ると、解剖台の上に、そのままの姿であるんだよ。いつか、養老孟司さんがそんなことを言ったのを思い出した。対局室にどんなに動きがあっても、羽生さんか森内さんが指さない限り、盤面の上は時間が止まったままである。羽生さんが指さない限り、時計は再び動き出さない。

2012-04-24 16:28:26
茂木健一郎 @kenichiromogi

16時30分になる。羽生さんは、まだ指さない。ぼくは、記者控え室のモニタテレビの近くに床座りしたまま、この観戦記をツイートしている。そのうち、なにかまた用事でこの場から連れ出されてしまうのではないかと、それを恐れている。許す限り、この場所でこの空気に触れていたい。

2012-04-24 16:30:14
茂木健一郎 @kenichiromogi

はーっとため息を一つついた後、羽生さんが、ほんの一瞬、ほんとうに一瞬森内さんの方を見上げた。いま、羽生さんの心の中でいったい何が起きているのか。羽生さんは右手を額にあてて、すっかり下を向いてしまった。そんな羽生さんを、今度は森内さんが上目遣いで見る。

2012-04-24 16:32:26
茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さんは、まだ打たない。森内さんが、ざぶとんの上に、まるでクラウチングスタートのように両手をついた。羽生さんが座り直して、相撲の立ち会いの前のような姿勢をみせる。しかし、羽生さんはまだ打たない。

2012-04-24 16:33:57
茂木健一郎 @kenichiromogi

なんと、ここで迎えがきちゃったよ。谷川永世名人と、対談前のお食事にいくみたいである。対局室よ、なごりおしいけれども、さようなら! 羽生さん、森内さん、がんばってください!

2012-04-24 16:34:51
茂木健一郎 @kenichiromogi

谷川永世名人との、対談前の会食を終え、将棋名人戦の記者控え室に戻ってきました。封じ手は18時30分ですが、谷川さんとの対談が18時30分からなので、封じ手前に、残念ながら私はつれていかれてしまうものと思われます。

2012-04-24 17:45:43
茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さんが七九飛車と逃げたことは、谷川さんと食事をしているときに、ツイッターで知った。谷川さんは、そろそろ、二人とも、あうんの呼吸で、封じ手のことを考えたい局面かもしれません、と言う。

2012-04-24 17:47:28
茂木健一郎 @kenichiromogi

谷川さんによれば、この将棋は、途中まではほぼかたち通りだったけれども、森内さんが二七金と打ったところから新しいかたちになった。ここで間違えると取り返しがつかないので、二人とも時間をつかって考えているのでしょう、と言う。

2012-04-24 17:48:27
茂木健一郎 @kenichiromogi

谷川さんによれば、後手の森内さんが、このかたちの研究を事前にしてきたのでしょう、二七金はその表れだという。その森内さんは、今また、白眼をびみょうなかたちできらめかせながら、羽生さんの方を見るでもなしに見ている。

2012-04-24 17:50:33
茂木健一郎 @kenichiromogi

対局室と、記者控え室では、流れている空気がまったく違う。記者控え室には、回線やモニタなどの文明の利器があり、それぞれが日常の延長を持ち込んでいる。一方、対局室を支配しているのは、沈み込むような静寂。衣ずれの音と、ため息の音以外に、それを破るものはない。

2012-04-24 17:53:56
茂木健一郎 @kenichiromogi

記者控え室から、モニタで対局室の様子を見ていると、まるで潜望鏡で深海のようすを探っているような気持ちになる。今、森内さんがコップに水をついで、深海の静寂が破れた。羽生さんはくちびるに指を当てて考えている。手番は、水を飲んだ森内さんだ。羽生さんもくちびるを濡らしたかのように。

2012-04-24 17:55:37
茂木健一郎 @kenichiromogi

対局室にはあまりにも静寂が支配しているので、あぐらをかいて座布団の上に座る、その姿勢の変化、体重移動が、深海を揺るがす大きな出来事のように感じられる。羽生さん、森内さんの身体運動が、次第にプレートテクトニクスのような巨視的な現象であると感じられてくる。

2012-04-24 17:57:18
茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さん、森内さんというふたりの棋士をかたちづくっている細胞の数々が、巨岩のように盤を挟んで向き合っている。その身体運動は、何十憶もの細胞を動員し、巻き込む。その巨視的現象に、私たちは「将棋名人戦」という意味を与えている。

2012-04-24 17:58:39
茂木健一郎 @kenichiromogi

100年の後に思い起こされるものは、二人の残した棋譜なのかもしれない。しかし、ここには、紛れもなく二人の人間が息づいている。アフリカの沼で水浴びをする動物たちのような、息遣いと肌のぬくもりをもって。それは、この記者控え室からすぐそこの空間で起こっていることなのだ。

2012-04-24 18:00:26
茂木健一郎 @kenichiromogi

森内さんが、身体を細かく前後に揺らして、それからまばたきをした。ハブさんが、コップに手をやり、それが空であることに気づいてペットボトルの栓を回す。そのカラカラという音と、森内さんのほほに当てられた手が呼応する。森内さんは、まだ手を指さない。森内さんが、指の骨をならした。

2012-04-24 18:02:07
茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さんが、左手に水の入ったコップを持ったまま、盤面を見て止まっている。観戦記者の村瀬さんが、共鳴するかのように口に手を当てる。森内さんは、自らの中の湿り気のありかを確認するかのようにまばたきをする。森内さんの手番だが、森内さんはまだ指そうとしない。

2012-04-24 18:03:39
茂木健一郎 @kenichiromogi

森内さんの手が、めずらしくだらんと膝の上に置かれている。スフィンクスが、砂漠の感触を確かめている。羽生さんが、眉毛を動かした。しかし、二人の視線は一切交錯しない。森内さんの手番だが、手が指される気配は一切ない。封じ手の時間まで、あと25分。

2012-04-24 18:05:52
茂木健一郎 @kenichiromogi

森内さんにしろ、羽生さんにしろ、盤面の配置からスタートして、何本もの枝分かれにそって、十数手先まで読んでいるわけだから、二人が見つめている虚空は、可能世界の中にしかないということになる。対局室の中にいて、対局室の中にはいない。羽生さんが、ほとんど立ち上がろうとして、また座った。

2012-04-24 18:07:44
茂木健一郎 @kenichiromogi

森内さんが、立ち上がって、対局室の外に出ていった。森内さんの手番。封じ手まで、あと22分しかない。もしここで森内さんが指したら、羽生さんは比較的短い考慮時間で手を封じなければならないことになる。このまま、森内さんが手を封じるという、あうんの呼吸があるのか、裏切られるのか。

2012-04-24 18:09:12
茂木健一郎 @kenichiromogi

羽生さんの、けがをして包帯を巻いた右手が膝の上に置かれている。盤を挟んで、森内さんの姿はいない。封じ手を決めてしまって、それまでの時間を外で過ごそうと出ていったのか。残された羽生さんは、一人で考えている。対戦相手のいない対局室の中で。羽生さんが、ああっと言って身をよじった。

2012-04-24 18:11:57
茂木健一郎 @kenichiromogi

谷川永世名人との対談の時間が迫ってきたので、ぼくはそろそろとなりのアオーレに行かなければなりません。森内さんはまだ対局室に戻ってきません。羽生さんが額に手を当てている。ああ、森内さんが戻ってきた。居住まいをただしている。果たして、指すのか。羽生さんの方をちらりと見た。

2012-04-24 18:13:44