今更だけど日本オープンのための上京して2週間帰れなかったお話
一月前の14:46といえば、渋谷駅の構内で電車を降りたところ。渋谷駅のモニターでただ事じゃないことに気づいたっけ…今の時間はもう、気仙沼の職場とは連絡とれなかった。
2011-04-11 15:49:49当日、東京都内のJRも止まっていた。東京でも大パニック。最新の情報が欲しいがために、ケータイ用の乾電池の充電器と乾電池を8本ほど。結局夫婦で使い果たしてしまった。ワンセグとtwitterとmixiしか連絡手段無かったので、電池の減り方はあっという間。
2011-04-11 15:51:46その後、JRはあきらめて渋谷から新宿まで徒歩。1時間半ぐらい歩いたのかな。新宿のニュースで、改めて交通混乱となった現状と、気仙沼の職場や実家と全く連絡が取れないことに焦りを感じた。宿泊を某所にとっていたのだけど、宿もあきらめ、ネットカフェに飛び込み。残室2でゲット。助かった。
2011-04-11 15:54:26これで残室とれなかったら、近くの高校か、新宿御苑しか避難所が無かったらしい。とにかく、何か起こっても、全く情報が入ってこなくて混乱するのが現場というものである。気仙沼情報は気仙沼の人も暗くなってきてからは現地の人もよくわからない。自分らも自分らで、東京の動きは全く見えなかった。
2011-04-11 15:57:02ネカフェで落ち着いて東京から気仙沼の様子のTV中継を見る。…地獄だった。日蓮は「天国と地獄はこの世にあるもの」というが、その意味がよくわかった。とにかく気仙沼の全容がよく見えず、呆然として火に包まれた気仙沼の中継を見るのみ。
2011-04-11 15:58:52TVの前では他の沿岸もひどい様子が。八戸、宮古、大船渡、高田、石巻、仙台、名取、相馬…自分がお世話になった場所が全て消えていく。全てが想像を超えていた。自宅も水没か延焼を覚悟した。
2011-04-11 16:01:36何しろ、自分の地区は、ネットでどこを見ても情報が入らない。焦った。便りが無いのは無事の証拠、これを信じるしかなかった。とにかく大丈夫だ、と自分を励ますしかなかった。そんな状況下で東京に来た本来の目的は果たせるはずもなく……気仙沼に帰る手段探しに奔走することになる。
2011-04-11 16:08:48とにかく行けるだけ北まで向かってみる方法。次の日再開したJRで宇都宮まで行けたのだが、この頃にはガソリンパニックが起きていてレンタカーも厳しそうであった。道は通っていそうだったけど、補給は難しそうに感じた。そこで宇都宮に一泊したけど、断念。
2011-04-11 16:12:50その間にもtwitterやmixiにもたくさん応援いただいてました。これだけは感謝。見ず知らずの人からも応援もらって非常に励みになりました。ついでに、連絡先を無くした友人とも運良く連絡が取れた。これは本当に嬉しかった。
2011-04-11 16:15:11時間でしか解決できないことがいくつもある。インフラもそう。結局、やっと帰れる道が見つかったのは、もう気仙沼を出て5日もたったとき。東京~新潟~仙台~一関ルートがひっかかった。新潟~仙台に予約が必要で、これが数日後と判明。それまでは待つしかなかった。
2011-04-11 16:22:22そして、友人からの申し出で宿泊場所の提供をもらう。助けられた。とにかく無事に戻って無事に過ごし、無事な姿を関わってきたみんなに見せるのが恩返しだと改めて誓う。1週間近くお世話になってしまった。
2011-04-11 16:19:56待ってる間はどうしようもなく、とにかく焦らないことだけが大事。たまたま近所のネカフェに行ってみて、航空写真を確認してやっと自宅が(見た目には)無事とわかった。自宅の確認で震災から数日もかかっちまった。ちょっとだけ、勇気が出た。
2011-04-11 16:24:50その頃には、マスコミの興味は震災情報ではなく、原発関係ばっかり。正直落胆ものですわ。情報が飽和状態になった頃、計画停電も発動。っていうか、あの突然切れる停電はあぶなっかしくてしゃぁない。あと、原発関係の記者会見、自分でも言ってることが理解できてない感が。文系の人かなぁ。
2011-04-11 16:29:15まぁそんなこんなで、気仙沼に帰ってきたときは12日後。その後は生活にバタバタしてます。……という話をブログに書こうと思ったんだけど、twitterで小出しに書いてまとめようとしたわけです(笑)。
2011-04-11 16:30:26