山田正紀氏と笠井潔氏による「輪るピングドラム」考察

「輪るピングドラム」について、山田正紀氏と笠井潔氏が深夜に考察されていたのでまとめました。 ・6月21日に両氏が考察された分を追加しました。(6/22) ・6月22日に両氏が考察された分を追加しました。(6/23)
225
山田正紀 @anaryusisu

@kiyoshikasaiいえ、半分寝てるんですよ。倒錯した覚醒意識にとり憑かれてしまって・・ 麻原のお話ですが、「ピンドラ」に「カルトの呪い」を擬人化したような「幽霊と称する男」が医師として出てくるのは非常に象徴的ですね。「マインドコントロールの擬人化」というか・・・

2012-06-20 02:31:42
笠井潔 @kiyoshikasai

全人類の罪を購うために進んで「犠牲」になったと、アレクセイ・カラマーゾフが語るところの「あの人」の存在に目覚めたのかもしれない。そう作者は暗示しているのだろうと考えるしかない。

2012-06-20 02:33:41
笠井潔 @kiyoshikasai

というわけで、「ピンドラ」を「銀河鉄道」の線で解釈するのも、「カラマーゾフ」ないしドストエフスキイ作品を重ねてみるのも、さほど結論は違わないように思います。山田さんには、水やペンギンの象徴をめぐる映像テクスト分析を期待します。

2012-06-20 02:35:15
山田正紀 @anaryusisu

すでにある「解説本」を読まずして「ピンドラ考察」をするのはマズいのでは、という意見をいただいたたが、これは基本的にテキストだけを頼りに(つまり徒手空拳で)どこまで魅力的な「読み」を構築しうるか、という試みだと理解されたい。右左を慎重に見ながら道路を渡るようなことはしたくない

2012-06-20 09:20:23
笠井潔 @kiyoshikasai

「銀河鉄道の夜」のカンパネルラの名前は、イタリアのドミニカンで千年王国主義革命家トンマーソ・カンパネラ(『太陽の都』の作者)から採られたのは確実だと思う。宮沢賢治のモダニズムの要素を含む農本主義思想は、一柱会を経由して昭和維新運動/右翼革命運動と繋がっていた。

2012-06-20 17:31:35
笠井潔 @kiyoshikasai

浄土真宗と並んで日蓮宗には、日本仏教のなかでは千年王国主義的傾向が強い。キリスト教と仏教の違いはあれ、賢治がカンパネラにシンパシーを感じたとしても不思議ではない。またカンパネラはルネッサンス期の自然学者で、新プラトン主義的な魔術師でもあったから、ますます賢治と発想が近い。

2012-06-20 17:37:03
笠井潔 @kiyoshikasai

ところで、戦後日本で最大の千年王国主義運動がオウムだった事実がある。千年王国主義なら全部肯定できるわけではない革命の理想はしばしば腐敗したテロリズムに転化していく。ここのところを、どのような思想的な深さで思考できるか、しているかに、避けられない課題がある。

2012-06-20 17:41:44
笠井潔 @kiyoshikasai

「共同観念→自己観念→党派観念」という観念の運動論理はテロリズムに行き着くこれに、観念を浄化する観念である集合観念が対抗しなければならない。というようなことを『テロルの現象学』では書いた。

2012-06-20 17:59:45
笠井潔 @kiyoshikasai

「銀河鉄道」のカンパネラ/千年王国主義/オウムと地下鉄サリン事件。このように繋いでみると、「ピンドラ」の構想の背景が、少なくともその一部は浮かんでくるように思う。

2012-06-20 18:01:47
山田正紀 @anaryusisu

「輪るピングドラム」、(6)笠井さんが先に賢治の持つ狂気とある種の危うさに言及なさった。賢治を肯定する者は「よだかの星」に描かれた自己犠牲精神の美しさを称え賢治を否定する者は「私は剣で沼や便所に隠れて手を合わせる老人や女をズブリズブリと刺し殺し」と書いた彼の国家主義をあげつらう

2012-06-20 20:24:56
山田正紀 @anaryusisu

「輪わるピングドラム」(8)、賢治が持つ崇高さと狂気の二面性はまさに「ピンドラ」のメインテーマを体現するにふさわしい。けれどももう一度「ピンドラ」のおける「現実」とは何か、という点にたちかえって考察を進めたい。まずは「ピンドラ」の重要なアイテムであるところの「リンゴ」とは何なのか

2012-06-20 20:32:16
山田正紀 @anaryusisu

9)、「輪るピングドラム」の「リンゴ」とは何なのか? それはまずはカレーの味をまろやかにする「隠し味」である・・「リンゴ」がなくてもカレーを食べることはできるが「リンゴ」を入れたほうがはるかに美味しい、そういうものとして「リンゴ」は表象されるのだ。もう一つ思い出すべきことがある

2012-06-20 20:58:16
山田正紀 @anaryusisu

(10)「輪るピングドラム」、檻のなかの冠葉と晶馬が一つのリンゴを半分に分け合うシーンがある。たぶん、このリンゴは「エデンの智慧の木」の果実なのだろう。半分に分けあわなければならなかったために彼らの「智慧」は十分ではなかった。そのために彼らは「幻想」に翻弄されなければならなかった

2012-06-20 21:08:27
山田正紀 @anaryusisu

陽鞠が「幻想」のなかで少年たちと抱擁するときにふしぎにヌードになってしまうのだがこれを節操のない視聴者サービスと考えるのはたぶん違う彼女は「アダムとエヴァ」のエヴァではないか。エデンはしょせんは「愚者の園」にすぎない。「智慧の果実」を食べたものだけが「現実」に触れることができる

2012-06-20 21:18:17
笠井潔 @kiyoshikasai

山田正紀氏の「ピンドラ」の象徴分析が終わるまで、こちらはこちらで続きを書いておこう。山田さんが、とりあえず抽出した「現実」と「犠牲」の論点だが、「観念→現実」というほど問題は簡単ではないことはすでに書いた。山田さんも、青臭い観念家が現実に目覚めて大人になればいいとはいっていない。

2012-06-20 23:30:44
笠井潔 @kiyoshikasai

人間は観念の檻から出ることなど原理的に許されていない。この認識を前提として、ではどうすればいいのかを考えなければならない。「犠牲」にかんしても、問題の複雑さは「現実」に劣らない。自己犠牲の精神と行動は気高い。しかし、それを無自覚に賞讃してばかりはいられない。

2012-06-20 23:35:45
笠井潔 @kiyoshikasai

カミュは戯曲「正義の人々」でカリャーエフという実在の青年テロリストを描いた。大公の馬車に爆弾を投げる直前、カリャーエフは教会の前で跪いて祈っていたという証言がある。人民の意志党や社会革命党のテロリストたちもまた、民衆の解放のために自己犠牲を覚悟した人たちだった。

2012-06-20 23:39:27
笠井潔 @kiyoshikasai

カリャーエフを励ましたのは、キリストによる「犠牲」という先例だったかもしれない。この時代のロシアのテロリストは、一人一殺、殺した者は殺されなければならないという理念で行動していたというのが、カミュや埴谷雄高の解釈だ。たとえ極悪非道の権力者でも「殺してはならない」。

2012-06-20 23:43:33
笠井潔 @kiyoshikasai

いかなる正義を掲げようとも、殺人を犯した者は、自身の命で負債を返さなければならない。これを埴谷は「暗殺の美学」と呼んでいる。しかし問題は、19世紀ロシアの青年テロリストの話にとどまらない。

2012-06-20 23:47:01
笠井潔 @kiyoshikasai

地下鉄サリン事件の犯人たちも、その時点ではテロを、人類救済のための自己犠牲的行為と信じこんでいたかもしれない。カリャーエフの暗殺の美学は評価できるが、サリン事件は醜悪な大量虐殺にすぎないといえるだろうか。

2012-06-20 23:49:30
笠井潔 @kiyoshikasai

サリン事件の先には、さらに大規模な抑圧と虐殺が控えている。たとえばポル・ポト事件のような。しかし、われわれは「犠牲」の精神を否定し、自堕落な現状容認の姿勢を肯定することもできない。「犠牲」をめぐっては、こうしたパラドックスが必然的に生じてしまう。

2012-06-20 23:54:16
山田正紀 @anaryusisu

(11)「ピングドラム」、ただリンゴを半分だけ食べた彼らの「現実」がどこにあるのか、という疑問はある。檻内の彼らの姿はそのまま子供ブロイラーとして処理される「幻想」を受けた(多少は「現実」に近い、しかしやはり「幻想」でしかない)現実として設定される、「現実」の底が抜けているのだ

2012-06-20 23:55:14
笠井潔 @kiyoshikasai

通俗的なヒューマニストのように、自己犠牲の精神を称揚してすませるわけにはいかない。『カラマーゾフの兄弟』の第2部が、皇帝暗殺をめぐるテロリストの話になる予定だったことは、よく知られている。アレクセイがテロリストになるのか、アレクセイを取り巻いていた子供たちの一人がそうなるのか。

2012-06-20 23:56:53
笠井潔 @kiyoshikasai

この辺はいろいろ説があるのだが、いずれにしてもドストエフスキイが、修道士志望の純真な(しかしカラマーゾフ的な獣性も秘めた)青年を、さらなる地獄遍歴の旅に連れだそうと考えていたことは間違いない。

2012-06-21 00:00:44
笠井潔 @kiyoshikasai

「現実」と「犠牲」をめぐるこうした難問に、どう「ピンドラ」が応えているのか。それをどう、山田正紀氏は読み解こうとしているのか。そろそろ山田氏がツイートに復帰したようなので、この先を傾聴することにしよう。

2012-06-21 00:02:19