ここからしばらく川柳について考えてみます。論点は次のとおりです。[1]俳句と川柳の比較。[2]名詞・動詞の組み合わせと「換喩の領域」。[3]道具と用途について。[4]「滑稽」について。[5]川柳における「滑稽」について。[6]俳句と川柳の比較の続き。
2012-07-22 21:47:17まず[1]俳句と川柳の比較についてですが、この問題は、玄人筋ではすでに論じつくされていると思うので、私のような素人がこれ以上何か付け加える余地はないと思います。ただまあ、こういう話題から入るのが入りやすいので、ここではそうさせていただきます。
2012-07-22 21:48:56この問題について、私が知っている説としては、復本一郎さんの「句の中に「切れ」があるのが俳句、ないのが川柳」という説があり、私はこの説でほぼ納得しています。この説は、復本さんの『俳句と川柳―「笑い」と「切れ」の考え方、たのしみ方』(1999)という本に書かれています。
2012-07-22 21:49:35ただそこから、「川柳に「切れ」があれば、それはもう川柳ではなく俳句になってしまう」とまでいってしまうと、それは少し言いすぎかも、という気がします。
2012-07-22 21:50:08この場合、川柳として、江戸川柳やサラリーマン川柳のようなものを想定した場合は「川柳には「切れ」がない」といっても大きな間違いではないかもしれません。しかし、現代川柳を含めて考える場合には「「切れ」のある川柳もあるんだよ」ということになると思います。
2012-07-22 21:51:31といっても、私自身、現代川柳を知ったのはつい最近のことで、それまではやはり、川柳について限られたイメージしかもっていませんでした。その反省の意味もこめてこの文を書いています。
2012-07-22 21:52:05私の答えとしては「俳句はop(q)、川柳はo(p)q」というのがありますが、この説明は後でします。ただどちらにしても、先ほど書いたように「俳句と川柳は排他的な概念ではない」という前提は必要だと思います。
2012-07-22 21:52:47つまり、俳句と川柳の間に明確な境界はなく、ただ傾向の違いがあるだけ。その違いとして「俳句は自然を描き、川柳は人事を描く」「俳句は風景を描き、川柳は風俗を描く」「俳句は気象を描き、川柳は心理を描く」といったものがあり、これはこれで妥当なように思います。
2012-07-22 21:53:25これらの見方はどれも妥当だと思いますが、そういった傾向があるという以上のものではないともいえます。つまり、俳句と川柳には傾向の違いはあるが、無理に峻別する必要はない、というのがとりあえずの前提ということになります。
2012-07-22 21:54:42これに対し「やぶれる」とか「さけぶ」とかいった語をつなげるのは「ふつうじゃない」ということになります。「雪がやぶれる」というのは、どういうことかよくわかりませんが、「ふつうじゃない」ことは確かです。
2012-07-22 21:57:45こういった「ふつうじゃない」表現は、文脈次第で「隠喩」と見られたり「シュール」と見られたりします。そういう表現を、ここでは「隠喩の領域」にあるということにします。
2012-07-22 21:58:08そして、この「隠喩の領域」と「ふつうの領域」の間に「換喩の領域」があるというのが、今回述べたいことです。似たようなことは前にも述べましたが、文のレベルだけではなく、語と語の組み合わせのレベルでも「換喩の領域」がある、というのが今回の主張になります。
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