限界研『21世紀探偵小説』をめぐって(完全版)
@kumonoaruji うーん。小森さんの議論に大きく依拠していることは認めます。それは私の不勉強でしょうか。しかし、彼の概念系が現在のミステリ批評では非常に汎用性が高いのも確かだと思いますが。
2012-08-01 19:41:46海老原豊「終わりなき「日常の謎」」を読んだ。これは日常の謎や米澤穂信を考えるにあたり不可欠の文献になるだろうし、それを超え、推理小説一般に示唆を与えているように思う。
2012-08-01 19:49:10ポイントは、「日常の謎」のミステリが成り立つ領域を「中間共同体」(北村薫の円紫さんと私のような、お互いに話が通じる人々の集合)と呼んだ上、米澤作品の推理を、こうした中間共同体の新陳代謝をうながすパフォーマンスと位置付けているところだろう。
2012-08-01 19:55:09「推理」を、真相に到達するための無謬の道具とみなすのでなく、論理式の集合に還元するのでもなく、読者を喜ばせる趣向とみるのでもなく、中間共同体を支配する「空気」をかき乱したり、暫定的な「真相」を提示して共同体を再編したりする、両義的で行為遂行的なものとしてとらえようとしている。
2012-08-01 20:08:11@diesuke_w ですので、私の議論とどこが違うか違わないかを把握した上で使われるのであれば、それは渡邉さんのご判断なのですから、かまわないのです。
2012-08-01 20:15:05しかし、ここでも、オレを無視するなよ~という情けない文句をつける。海老原論文の内容が、さきほど述べたポイントにおいて私の考え及ばないものだったことは確かだ。しかし、筆者が文末の参考文献で掲げる資料のどれよりも、私の書いてきたことが海老原論文の至近距離にあるといってよいと思う。
2012-08-01 20:21:07海老原は、「日常の謎」ミステリは、日常⇒非日常⇒異化された日常という往還をするという。日常の中に非日常の「謎」を発見し、それを解決することで元の日常に戻るかのようだが、謎解きの過程で「自明とされていた日常の根底を脅かす亀裂」を発見してしまうので、元のところには戻れないというのだ。
2012-08-01 20:29:20これは、私が繰り返し書いてきた(『蜘蛛』はもとより、たとえばユリイカの米澤特集で)ことと似ている。私の言い方では、「日常の謎」派とは、日常を安定したものとみなす「ほのぼの派」ではなく、「日常」が各人の認識に依存する不安定なものであることを推理の過程を通じて暴露しようとするものだ。
2012-08-01 20:37:06たとえば、円紫の推理は、我々が見過ごしがちな些事から意外な世界の姿を解釈してみせる過程である。日常の安定性を脅かすのは、他人の悪意や陰謀ではない。推理による謎解き過程を通じ、我々の認識する「日常」が実は解釈の集積にすぎないことが暴露されることによって脅かされるのだ。
2012-08-01 20:44:29そして、ユリイカの米澤論では、「推理」という行為を、無色透明の論理操作としてではなく、耐えるべき経験、生活の中に確たる時間を占めるひとつの日常経験として再発見し続けることを提言している。
2012-08-01 20:52:48たんに私の書くものの水準が掬いあげるに値しなかったということだろうか。それとも、かつて笠井さんが内田隆三を批判したような事態が再演されているのだろうか。
2012-08-01 21:05:11@kumonoaruji はい。巽さんの仰りたいことはわかりますし、ご不満も納得できます。もちろん、一緒くたにはできず、違いはあります。週末に転居する関係で蔵書を詰めてしまっていて、いま細かく確認できません。今後イベントもやりますので、何かの折にお応えしたいと思います。
2012-08-01 22:51:07飯田一史「21世紀本格2」は、島田荘司とその影響下にあると目される若手作家を概説したものだが、感心できない。小島正樹が物理トリック派、柄刀一がサイエンス派といったレッテル貼りに頁を使ったうえ、最後でいきなり歌野晶午を持ち出し「綜合派」として称揚するという組み立てで引いてしまう。
2012-08-02 14:20:25いくら島田の影響を受けているからと言って、個々の作家が島田の縮小コピーであるわけはないのだから、物理トリック好き、科学志向といった島田の特徴の一部を取り出し、それを後進作家へのレッテルにしたところで、恣意的で個々の作家を矮小化するものだとの批判は免れないだろう。
2012-08-02 14:25:25しかも、最後に歌野を取り上げる部分が、それまでの島田をめぐる議論とうまく連続しておらず、唐突な感じがする。残念なのは、この筆者に問題意識や能力が欠けているのでも、はじめからお手軽なガイドを書くつもりしかなかったのもでないらしいことだ。もっとできるはずなのにという歯がゆさがある。
2012-08-02 14:35:38飯田自身認めるように、島田の評論は、小説家島田の可能性を覆い尽くすものではない。だとすれば、いわゆる「島田理論」によって島田の小説を理解しようとするのは危険である。そもそも、作品解釈にあたって、作家が自作について公言している「建前」が当てにならないのは一般的にいえることだ。
2012-08-02 14:44:45だから、たとえば、島田自身がいくら科学科学と連呼しようと、彼の小説にあらわれる推理を「科学」の名のもとに理解してしまうのは早計である。
2012-08-02 14:47:27島田が脳科学の取り入れを提唱しているのは周知の事実だ。われわれは脳みそを一個ずつ所持し、それで世界を認識しているのだから、脳の問題は誰にとっても他人事ではない。だが、だからといって、脳科学を取り入れた推理小説が必ずわれわれの世界観を更新する21世紀版推理小説になるとはいえない。
2012-08-02 14:52:58「目撃者が犯人を見逃したのは特殊な脳障害があったからです」「ああそうですか」で終わってしまう場合だっていくらもある。要するに、脳科学が新手のトリックのネタとして消費されるだけに終ることは十分考えられる。この点も飯田は理解して論じようとしている。だが、だったらどう考えればよいのか。
2012-08-02 14:57:00脳科学など新しい科学的知見を使い、しかも単なる個別ネタに終わらない衝撃力ある作品を作るにはどうしたらよいか。飯田は冒頭で、伊藤計劃が若い読者に影響を与えている例をあげ、推理小説の分野ではそのような影響力ある作家が見当たらないとする。
2012-08-02 15:08:45たしかに、伊藤、あるいは(脳科学ネタでいえば)グレッグ・イーガンのように、科学的なアイディアから出発してそれが支配する未来世界を作り上げてしまうことはひとつの行き方だろう。しかし、それは原則としてSFの領分である。
2012-08-02 15:11:28ひるがえって、島田の実作はどうだろう。少なくとも私は、そこに個別ネタを超えた不気味な衝迫力があるのを認める。たとえば『眩暈』冒頭のような世界の崩壊感覚。それは、飯田が伊藤計劃に「生きづらさ」の表現があると言うのと同様、われわれが社会に対して抱く不安感の表現だといってよい。
2012-08-02 15:24:12