エロ本をベッドの下に隠す時代は終わった。〈パーソナルスペース〉。新時代の僕たちは個人に割り当てられた異次元空間に物を隠す。ある日僕のパーソナルスペースに女の子がいた。「ふたりのパーソナルスペースがつながった!」どうしてだ。どうしよう。「これからよろしくお願いします」「こちらこそ」
2012-08-14 09:36:44「ところでパーソナルスペースを共有することになったのだから、これからは私たちお互いに使い方を気をつけなくてはいけないね」「そうだね」「ではまずスペースに散らばってしまった互いの持ち物を片づけましょうか」「変なものを見せてごめん」「私は気にしません」「僕は気にする」「そうですか」
2012-08-14 09:51:55彼女はどのようにパーソナルスペースを活用していたのか。僕はそれとなく床に落ちた彼女の持ち物を見た。それはノートだった。「中は見ないでくださいね」彼女は言った。僕はその通りにした。けれど一冊のノートは開かれたまま置かれていた。僕はその中身を見てしまった。「それ、マンガに見える?」
2012-08-14 09:57:59彼女は僕にノートの中味を見られたことを気にしていないように見えた。あるいはそのように振舞っていただけかもしれない。僕は正直に言った。「マンガだと思う」「そう、ありがとう」彼女は僕の隣に座った。「けれどこれは秘密なんだ。秘密は守られなくてはいけない」スペースに圧迫される気がした。
2012-08-14 10:01:14「お待たせ」彼女は飲み物と菓子を持って部屋に戻ってきた。僕は彼女の部屋に招待された。パーソナルスペースから彼女の部屋に移るとなんだか身体が軽くなったような気がした。「おかしなことになったね」僕は言った。「そうかな」彼女は言った。「みんな知らないだけでよくあることなのではないかな」
2012-08-14 10:10:39彼女は落ち着き払っていた。僕は彼女の存在を疑った。パーソナルスペースで幻覚を見たという話を本で読んだのを思い出した。「君はほんとうに存在する」僕は聞いた。「どうかな」彼女は笑った。「あなたは存在する」彼女は聞いた。「どうかな」僕は笑わなかった。彼女の部屋に涼しい風が忍び込んだ。
2012-08-14 10:13:08パーソナルスペースについては謎が多い。もちろんパーソナルスペースはもはや誰でも利用できるものであった。けれど利用するつもりで逆に利用されることもある。パーソナルスペースは何らかの意図をもってもうひとつのスペースと接点をつくったのだろうか。まるで恋をするように。「はっ」僕は笑った。
2012-08-14 10:18:54「パーソナルスペースに意思はあるか?」「ただの思いつきです」「あってもおかしくないよ」「どうして? おかしいじゃないですか。スペースが意思をもつなんて」「意思が人間にしかないとしたらそれのほうがおかしいと思う」「マンガの影響ですか」「マンガを馬鹿にしないで」「すみません」「いえ」
2012-08-14 10:21:14「いいでしょう。もしも僕たちの利用するパーソナルスペースに意思があるとする。だったらパーソナルスペースは僕たちに何を求めるのでしょうか」「求めよされば与えられん」「それはなんですか」「マンガからの引用だよ。パーソナルスペースが求めたから私たちのスペースはつながった」「なるほど」
2012-08-14 10:27:27「だったらこうしよう」彼女は僕に見えない人物に話しかけるようにした。「パーソナルスペースには意思がある。それは構わない。けれど私たちはどうなる。無視されるのは好きじゃない」「だったらどうします」「私たちも求める」「何を求めますか」「――神は天と地を分けた。マンガからの引用だよ」
2012-08-14 10:32:19僕と彼女は話し合った。問題は何か。ひとつは個人の秘密が暴かれることだ。僕は秘密を守りたい。「どうしたら個人の秘密が守られるだろう」僕は聞いた。「私は気にしない」彼女は言った。僕は聞き流した。見たくないものだってある。何を見たくないんだ。何を隠したいんだ。そこに何があるというんだ。
2012-08-14 10:39:41「秘密と言えば――」彼女が話し始めた。「パンドラって知ってる?」「開けてはいけない箱を開けた女だったか」「あなたもマンガを読むの?」「まさかこれも――」「そう、マンガからの引用だよ」僕は何かがおかしいと彼女に言おうとしたが、その前に思いついたことがあって何を言おうとしたか忘れた。
2012-08-14 10:42:28「パーソナルスペースよ」パーソナルスペースに話しかけることに僕は抵抗を覚えた。まるで人形遊びをする小さな女の子じゃないか。「聞いてくれ」おい、頼むから応えてくれよ。「僕は〈箱〉を求める」僕が言うとすぐに箱があらわれた。「言うなればパーソナルボックスだね」彼女が言った。僕は頷いた。
2012-08-14 10:46:06そうしてパーソナルスペースのなかに〈箱〉(パーソナルボックス)があらわれた。僕と彼女の二人分だ。僕たちは秘密を箱に収める。僕はエロ本を収めた。これだって僕の秘密なのだ。彼女は僕の知らない何かを箱に収めたらしい。何を収めたのかはもちろん聞かない。「知りたい?」「いや、結構です」
2012-08-14 10:55:49パーソナルスペースは何を求めたのか。僕はそれを知らない。「パーソナルスペースは子供を求めたんだよ」彼女は言う。そうかもしれない。違うかもしれない。その答えは箱のなかだ。僕はそれを暴かない。スペースにだって秘密は必要だから。けれど箱はどうだろう。箱は僕たちに何を求めるだろう。(終)
2012-08-14 11:00:38