「あなたのために笑いたい」
〈お気に入り〉には顔がない。俺は〈お気に入り〉の顔を見たい。だから俺は〈仮面〉を盗む。街を歩けばいい。そこには仮面がある。手始めに幸せそうな女の仮面を盗んだ。女は泣いて礼を言った。「幸せを演じるのは辛かった」だと。仮面は街のごみ箱に捨てた。まがい物は〈お気に入り〉に相応しくない。
2012-08-28 22:06:33「へぇ。いいじゃん」「何が?」「あんた。明るくなったよ」「そうかな」「うん。前は無理して明るくしたように見えたものだけど」「実はね。わたし、化粧を落としたの」「化粧ねぇ。それだけで変わるものかな」「変わる、というより落ちる、かな」「どっちでもいいけど」「気づいてくれてありがとう」
2012-08-28 22:13:54〈お気に入り〉には声がない。それは顔がないからだ。顔がなければ口もない。口がなければ唇もない。口と唇がなければ満足に発声できないのだ。けれど耳はあるから声を聞くことはできる。俺は〈お気に入り〉に話しかけた。「だめだね。お前に相応しい顔はどこにもないよ」〈お気に入り〉は首を振った。
2012-08-28 22:16:37友達は顔をつくれると言った。どういうことだろうと僕は思った。僕は手始めに〈幸せな顔〉をつくった。それを適当な女に売る。いろいろな顔をつくった。〈優しい顔〉、〈嬉しい顔〉、〈楽しい顔〉……。街に降りる。そこには僕のつくった顔を身につけた女性が溢れていた。真実は女性に相応しくない。
2012-08-28 22:24:08〈お気に入り〉には顔がない。俺は〈お気に入り〉の顔を見るために仮面を盗む。盗むために街を歩く。けれどなんだか様子がおかしい。仮面が見当たらない。いや、違う。「顔がないのだ」どうしてだ。どうして顔がなくなった。俺は顔をさがした。どこにもない。どこにもない。とうとう俺は街を去った。
2012-08-28 22:28:47「なぁ、〈お気に入り〉。最近どうも様子がおかしいんだ。顔が見えない。お前の顔だけじゃない。誰の顔も見えないんだ。なぁ、〈お気に入り〉。これではお前に顔を与えられないじゃないか。すまない。俺はお前を完成させられない」〈お気に入り〉は手を伸ばして俺の顔に触れた。俺には顔があった。
2012-08-28 22:31:03顔は誰のためにある。俺の顔は〈お気に入り〉のためにあった。俺は仮面を外した。俺は仮面を見た。仮面は蝉の抜け殻のように活き活きとしていた。叩き割ってやりたかった。なんだって俺よりも明るいんだ。俺は壊してやりたいという衝動を抑えて仮面を〈お気に入り〉の顔に添えた。仮面は笑った。
2012-08-28 22:34:57「こんにちは、〈お気に入り〉」「あなたに〈お気に入り〉と呼ばれたくはありませんが、あなたに名乗る名前もありません。だから〈お気に入り〉と呼んでください」「わかったよ、〈お気に入り〉。それで、なんの用事だ」「言いたいことがあります」「聞こうじゃないか」「顔をつくるのはおやめなさい」
2012-08-28 22:38:40「まさか。僕に説教を垂れる気じゃあないだろうね。言っておくが、言葉じゃ僕は変わらない」「ならば何が人を変えるとお思いですか」「フェイス。面だ。面に触れることによって面に触れられる。面に面と向かうことによって面に向かわれる。そうして人は変わる」「そこまでわかっているのに」「そうだ」
2012-08-28 22:41:44「あなたは〈顔〉をつくりすぎる」「なぁに。つくりすぎるということはないさ。需要がある。人々が顔を求めているんだよ」「いいえ。人が求めているのは顔じゃない。仮面です。だれかのために被る仮面です」「話はここまでだ」「待って。このままではあなたは〈顔〉になる」「何にもなれないよりいい」
2012-08-28 22:44:51「ねぇ」「なぁに?」「仮面と顔はふたつとも必要なんじゃないかな」「そうかもしれないね。けれど、わたしには顔がない」「あるよ」「そうかなぁ。だって、わたしにはあなたのくれた仮面しかない。仮面を外したら何もない」「いいや。ある。俺には見える。ほんとうだよ」「見つけてくれてありがとう」
2012-08-28 22:59:28