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本日、佐藤さん命日。もう5年なんだね。。合掌。【実録映画「阿賀に生きる」 新フィルムで公開 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 】http://t.co/6aWaxCOD
2012-09-04 12:24:33シネ・ウインドで『阿賀に生きる』を観る。良かった! 阿賀の自然で生きる人と生活をリスペクトした映画。 船の竣工式の祝詞はじんとくるものが。 長谷川さんの鮭の産卵の話しの場面もよかった。 この映画の監督はどんな人なのだろう?と映画を見て思った。 今日は佐藤真監督の命日とのこと。
2012-09-04 12:54:32佐藤真監督の命日。残された者たちで静かに集まって恒例のお墓参り。「阿賀に生きる」ニュープリント上映プロジェクトが進み、牛山映画も無事公開されたので報告することが多い年に。年々、少しずつ明るい気持ちでお墓参りできるようになってきた気がする。 http://t.co/amd5Gz6b
2012-09-04 14:12:09映画『阿賀に生きる』感想blog upしました。 140字では伝えきれない思いを書いてます。 http://t.co/KQ5MPjQC
2012-09-04 20:05:52ドキュメンタリー映画監督の佐藤真氏が2007年に亡くなられていた事を今頃になって知った。まだ49歳の若さだったのか…。氏の撮った『阿賀に生きる』も『まひるのほし』もとても良い映画だった。まだまだたくさんの映画を撮ってほしかった。
2012-09-04 23:40:56一般的に書いちゃって読みづらいかもしれないけど。要は、「暖かい」は温度に直せば人によって全く違う数値になるし、「美しい」と言っても視覚的に感じる人も、聴覚的に感じる人もいるし、「映画」と言っても、金曜ロードショーの人も、海猿の人も、シャブロルの人も、ゴダールの人も、色々だと。
2012-09-05 02:57:14人間が「言葉」によって抱くイメージは本当に千差万別で、そういう単語レベルですでに意味間には距離が存在するのだから、一連の文章を書いたり、会話したり、twitterに何かを書いたりしたなら、コミュニケーションなんて、本当に成立しているのかどうかすら怪しいもんだと言う事。
2012-09-05 02:59:28「言葉」を信用しないという態度は、誰でも持つものだと思うけど。言葉とは精神の事だと思うから(文字通り、俺はイコールだと思う)、結局、「意味の指向性が狭い言葉」(つまり誰にとっても同じ意味を志向するような言葉)を選択的に使用してコミュニケーションを取るのは、大切な事だと思う。
2012-09-05 03:05:05今のドキュメンタリーは、「何かを誰かに伝える」事を「目指して」撮られるものが多いと感じているのだけど。例えばテレビドキュメンタリーのディレクターの多くは、「伝えたい事」がまずあって、それを効果的に、誰にでも分かるように伝えるための画と構成を考えるプロだと思う。
2012-09-05 03:17:46それは、視聴者の「感情をコントロールする」事のプロだということで。映画だって同じような構成になっているものは多々ある。それはそれで、否定しないし、ドキュメンタリーという表現が得意とするものであるし、いいとは思うけど…
2012-09-05 03:19:12例えば、「東日本大震災の被災者達の今」を伝える仕事というのは尊いものだと思うし、厳しい介護の現場、原発の状況とそれを取り巻く構造、あまり多くの人に注目されていない社会問題、そういうものを「伝える」事は、大変な仕事だし、必要な仕事だと思うけど…
2012-09-05 03:21:18ドキュメンタリーというのは、自分が「なんとなく」惹かれるもの、気になるもの、そういうものにこちらから近づいていった時に、「私」というものを見つけていく、発見していく過程こそ最も面白いのだと、思う。それは「観客」を想定して「伝える」という行為とは別のものだろうと思うのだ。
2012-09-05 03:23:23カメラには映らない(映る事もあるけど)「私」が、被写体となった人を撮影していく過程の中で、段々と変化していく様子が記録されていて、それを間接的に見た観客も、その変化に感染して、その作家の変化の中に自分を見たり、社会を見たり、希望を見たりするようなもの。
2012-09-05 03:25:39「私が変化する」という事を最も直接的に表現する方法はセルフドキュメンタリーだけど。あれは結局「自分との対話」で完結していくものであって、ちょっと今書いたのとは違う。
2012-09-05 03:28:33またよく分からなくなってきた。。けど。「社会の中にいる私」「他者に囲まれて生きている私」が、その私の内面ではなくて、外側に向けて興味関心を向けた時に、カメラが周り、ある問題がそのきっかけになったとしても、最終的にはその問題の是非には行き着かず、人間そのものが描かれるもの。
2012-09-05 03:31:23この今の「時代」が抱える様々な「社会問題」というものや、「私」というものを、つぶさに見ていった結果として、結局は「人間とはこういうものだな」というところに行き着くもの。そして、それは同時に「人間って分からない」という場所にも行くもの。
2012-09-05 03:34:09そして、それはきっと、作家が生きている限り、矛盾を抱えながらもその人間という存在を肯定しているものになるはずではないかと思う。
2012-09-05 03:35:03原発推進も、脱原発も、作家の立場がどちらにあろうとも、結局、「人間」という存在を肯定的に描くことに行き着くしかないのではなかろうか。だから、あらかじめ、作り手が「この人達は素晴らしい」と思って、その素晴らしさを伝えるための編集をしたものはつまらないし。
2012-09-05 03:37:14この問題の原因となっているのはこの人達で、この人たちはヒドイという事を伝えるために編集されているものもつまらない。人間というのはおろかで、はかなく、大嫌いでもあり、大好きでもあり、そして自分は人間であることから逃れられないという強烈な意識。そういうものに行くんじゃないのだろうか。
2012-09-05 03:38:41なんか、全然考えがまとまらないけど。「肯定しなければ」という想いに、何年もとらわれているのだ。「人間を肯定する」ことしか「人間である私」には出来ないのだという想いに。
2012-09-05 03:40:08「歴史の被害者」「恵まれない子ども」「時代の犠牲者」「強烈な個性」「権力の構造」「時代の寵児」「ある天才性」。それらはカメラを向ける「きっかけ」となる記号に過ぎないと思うのだ。それらと向き合う中で、作家はある瞬間に、その記号とは無関係な剥き出しの「人間性」を見る事になるのだ。
2012-09-05 03:54:24そういうものを捉えているドキュメンタリー映画が好きだし、それこそがドキュメンタリーが持つ芸術性だと思う。佐藤真監督を尊敬し私淑しているのは、対象を何らかの記号ではなく、「私と同じ人間」であるという、強烈で、切実で、自覚的な意識によって捉えていると感じさせる眼差しがあるからだ。
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