そして、プーの物語の最後の最後に現れた違いを見てみましょう。先程のように比べると、ディズニー版がまた戻ってきてねというメッセージになっていることが分かります。もちろん観客に対してまた観てねという印象にもなりますが、これは森を去ろうとするクリストファー・ロビンにも当てはまります。
2012-12-02 01:52:14一方の原作版ではこのような、戻ってきてねというメッセージはありません。今後100エーカーの森で何が起ころうとも、外の世界で何が起ころうともそれはお互いに関与しない、完全に区切られた世界になった瞬間がこのシーンです。
2012-12-02 01:52:43クリストファー・ロビンはディズニー版では『完全保存版』の最後で森を去りますが、観客と同様またいつでも森に戻ってくることが出来ます。永遠「何もしないことをする」ことはもう出来ませんが、100エーカーの森での遊びを見守り手助けするくらいなら出来るのです。
2012-12-02 01:52:52これが『完全保存版』後のプーにおけるクリストファー・ロビンの役割となっています。ティガームービーでもピグレットムービーでもヘファランプムービーでも2011劇場版でも、クリストファー・ロビンがこの立場で帰ってこれるように巧く作られているのがディズニー版「最終章」だったのです。
2012-12-02 01:57:37原作で話を進める場合はクリストファー・ロビンはその後100エーカーの森に戻ることは出来ない。ディズニー版だと見守り手助け程度の役割を担える。
2012-12-03 10:23:07さっきの講義:「何もしない」には子どもの「遊び」と関わりがある。「遊び」は「なんでもないこと」を繰り返すこと。「遊び」の定義として、出来たものに対してそれを壊すことができるかというものがあり、子どもの「遊び」は、かけた時間の労力は目に見える形で残らない(砂場等、作品を残さない)。
2012-11-26 13:06:01Hughesの遊びの定義:「生存のための実際的適応に直接きわらず、その行動以外の目的をもたず、強制によらない、行動それ自体の喜びを目的とする、自由で自発的な行動」
2012-11-26 13:17:53プーと一緒にミヒャエルエンデの『モモ』も紹介された。「時間」の問題は、「子どもらしさ」を失うことで、プーとクリストファーロビンは一日中散歩することもあっただろうが、大人はその一日で(主に生存のために)得るものは何かを考えてしまう。
2012-11-26 13:23:20ピーターパンも子どもの世界と大人の世界とを区別して描かれてるように、多くの作家が「子どもの世界」「大人の世界」について描いている。子どもとの遊びには「子どもの世界」に入ることが重要であるという話
2012-11-26 13:26:28