- kyokucho84
- 6131
- 1
- 0
- 0
こんばんはに御座います。また、浮上にだいぶ間が空いてしまいましたな(´_`;) 迫る年の瀬の忙しさと親交を深める日々に御座いまする…
2012-12-24 00:15:20そういえば、先日も りついーと しておりましたが【あれ】があっていたのが、丁度今時分に御座いましたな…うむ、今より少しばかり手前の人生の中で最後に参戦した戦の話しをさせて頂きたく。少々、お付き合い下さいませな。
2012-12-24 00:23:10寛永十四年(一六三七年)、肥前でおこった「有馬の陣」…所謂「島原の乱」に御座いますな。島原藩などの圧政と、切支丹弾圧に抗してかの天草四郎殿を総大将とした民衆がおこした一揆。鎮圧に四ヶ月程要したこの乱に、手前も鎮圧する側として参戦しておりまする。この時、齢五十四。
2012-12-24 00:26:07手前はこの乱がおこる三年程前より豊前小倉藩・小笠原忠真殿の客分として九州に入っておりました。それというのも、養子である伊織がこの小倉藩の家老へと出世しておりましてな。その伊織に呼ばれた事もあり、そこに一時身を落ち着かせようとしておったので御座います。
2012-12-24 00:29:48小笠原忠真殿とも多少縁が御座います。手前が三十六の時には小笠原殿は明石藩主。小笠原家が開始した明石城築城の際には援助を請われ、手前も少し手伝いをしておりまする。姫路・明石に居た頃の詳しい話は、また後日。もうひとりの養子、三木之助も関わっております故ゆっくりと語りたく御座いまする。
2012-12-24 00:32:09この島原の乱での手前の逸話は「一揆軍の投石が脚にあたり、立てない程の怪我をした」というのが一番有名に御座いますな。まぁ、己でも書き残しておりますが…手前はこの乱で軍監という、簡単に言えば軍の配備や士気に目を配り戦況や戦果を本陣へと伝える、という役目にもついておりました。
2012-12-24 07:14:46そのような役目を持つ者が、石があたる程の前線に出たのか…という疑問が後の世にはあったようで御座いますが、それは「小笠原忠真殿の傍に、終始務めていた」という史料が残っていたからに御座います。
2012-12-24 07:18:10しかし手前、実は小笠原殿は小笠原殿でも忠真殿の甥である、中津藩・小笠原長次殿の旗本一番の騎馬として、二十名程の兵を率いて馬廻りを務めておったので御座います。
2012-12-24 07:19:58このお役目を成す為、一揆軍に対する作戦進行をも把握させて頂く立場にあり、また、三千二百の兵を率いる長次殿の馬廻り…護衛として在りました故、まぁ、情けない話には御座いまするが、怪我も致し方なしと…うむ。
2012-12-24 07:22:03更に情けない事に、対した成果もあげておりませぬ故…先程の記録と脚を負傷した事くらいしか、この島原の乱に関わる手前の話は残っておりませぬ。が、小笠原殿には重用頂きましてな…それも含め色々なお力を借り、乱終結の数年後、忠利様の元に参る事が出来たので御座います。
2012-12-24 07:24:50一揆軍が籠城していた原城は一国一城令により廃城となっており、その城跡を修理し物資を持ち込み一揆軍は戦っておったので御座います。乱終結後、原城跡は徹底的に破壊され当時の姿を見る事は出来ませぬが、今の世では公園として整備されておるらしく、かつて一揆軍が居たその場に立つ事は出来まする。
2012-12-24 07:28:38……手前があちらに赴いたのも、あれっきりに御座いましたかな。些か忙しなさもゆるんで参りました故、足を運んでみると致しますかな…
2012-12-24 07:30:17