平安京提要を読みながら

平安京提要を読みながら自分用の備忘録がわりのポストやそこからの連想や疑問に頂いたリプライをまとめました。 大変長大な書籍であり、内容も濃く、少しづつ読み進めて一段落したので公開してみました。
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賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:古京都湾があった頃には山科盆地は内湾だった。鴨川で洪水が多く起こっているのは寒冷期(小氷期)。神泉苑は堀川を流入河川として縄文時代から水面があった…。 #平安京

2013-03-06 21:25:58
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:西野山の中臣遺跡(弥生中期~古墳時代の大規模集落)出土の土器には、近江、東海、北陸、河内など広域に渡る影響が見られる。

2013-03-06 21:33:59
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:長岡京の条坊制は戸主制の宅地だった。ん?前にどこかで見かけたかな。

2013-03-06 21:52:29
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:高野川、鴨川、賀茂川、桂川の流路は遷都より遥か以前(縄文海進期辺り)から現在とほぼ同じ、って凄いなσ(^^;)。

2013-03-06 22:05:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

四神相応という言葉でよく語られる平安京ですが、地質学的にも地盤や河川、湖沼などの構造上の利点があったと考えていいのかな~。

2013-03-06 22:50:30
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

とりあえず、平安京提要を読みながらのメモは本日はここまでにします~。しかしこれは本当に手元に置きたいと思うな~。付属の地図なんて見るたびに((((o゚▽゚)o))) ドキドキ♪。

2013-03-06 23:02:15
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

あらら、今TLで将軍塚のポストを見かけましたが、将軍塚に田村麻呂が葬られているわけではないのでお間違いなきよう…σ(^^;)。て、そんなことどなたでもご存じかもですが。 #将軍塚 #坂上田村麻呂

2013-03-06 23:04:12
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

漠然と、平安時代の背面道は五条大路から都を西へ出て桂川を越え、松尾山、大枝山の南麓を通っていたのだと想像しているので、それも確かめたい。たぶん戦国時代以降に丹波口が置かれてから七条大路になったんだと思うんだけど。あと朱雀大路と鳥羽造道、桂川の草津湊、巨椋江の納所の位置関係も。

2013-03-06 23:51:15
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:平安京内に官寺(東寺・西寺)以外の造立を認めなかった桓武の方針は、院政期までは比較的保たれていた。11世紀末にも左右京職と検非違使による京内での堂舎の建立を禁遏の例がある。ん~そういえば確かに院政期の寺院も下京や洛外が多いものね。 #平安京

2013-03-07 21:10:37
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:平安遷都以前から、京都盆地を蹴上から太秦へと東西に横切る古道があり、造営時に船岡山を測量基点に、この道と垂直に交わる南北の新道が造られたのではないだろうか。あっなるほど~。

2013-03-07 21:55:29
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:東西の道が朱雀門前を通る二条大路とされ、南北の道が鳥羽作道であり、これが京内においては朱雀大路となったのではないか。鳥羽作道は深草屯倉へ通じる道と合流し桂川、淀川の津へと続いていたか…。ん~これは山崎の津?。納所へ続いていたという痕跡は無い?のかな(゚ー゚*?) 。

2013-03-07 22:09:55
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

納所は巨椋江の西岸にあったようだから、陸路なら影面道で山崎経由鳥羽造道、水路なら難波、住之江の浦から淀川を船で北上して納所か、上鳥羽や罧原の川湊まで遡ったんじゃないかと思うんだけどな~。決め手がないなあσ(^^;)。

2013-03-07 22:22:22
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

私も今日のメモ取りはここまでにします。老眼鏡が辛い…σ(^^;)。平安京提要でも繰り返し述べられていますが、都の造営が本格的に行われたのは遷都後であるということが大事だと感じます。

2013-03-07 22:35:40
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

大極殿をはじめとした平安宮が急ピッチで造られ、大君が還御されてからが都の造営時期。造営のすべてが人の手で行われる時代だからこそのタイムラグ。難波宮の建材を多く流用した長岡のようにはいかなかったということかなあ…。

2013-03-07 22:42:01
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:条坊復元のための復元造営尺の割り出し方、東寺と西寺から割り出したんだ。すごいな~。そして方位はやっぱり磁北より西に振れているんだ。これってやっぱり歳差運動の関係なのかな(゚ー゚*?)

2013-03-08 21:42:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

ああ、そうか戦前以前の発掘で埋め戻された遺跡の場所が不明になっちゃう理由がちょっとだけわかった気がする。長い年月の間に地図には位置誤差っていうものが存在してしまうんだ…。

2013-03-08 21:47:08
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

メモメモ:平安京条坊には限られた区域での偏った位置誤差は検出されていない。位置誤差に法則性が無いということは、造営は様々な場所から同時進行的に行われ、多数いたはずの施工指導者の測量計算技術はみな一定以上の水準だった。

2013-03-08 22:02:01
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

ん~、古墳の大きさを思えば周の算術とか、かなり古くから知られていたんだろうな~。土師氏や西漢氏、秦氏には当たり前の技術だった?。葛野大堰とか罧原は平安遷都前からあったんだしな~。

2013-03-08 22:08:43
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 発掘調査の成果では、藤原京(新益京)の条坊は結構測量の誤差があるようですが、平城京からは格段に正確になるという話を昔聞いたことがあります。

2013-03-08 22:25:41
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou そうなのですね( ゚д゚ )。新益京は京域規模も大きかったのでしたね。初めての条坊制都城の造営だったからということもあったでしょうか。だとすると反省や経験の蓄積もされてきたのかも…。

2013-03-08 22:47:46
しわまろくん 盛岡市 志波城古代公園 @shiwamaro_kun

@k_h_musume  マネージャーさん曰わく、志波城も徳丹城も、当時の最果ての施設なのに、驚くほど正確な測量のもとに作られたって!二尺位間違えて柱穴をあけたらしきたものは、ちゃんと直してたててるって!

2013-03-08 22:34:40
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@shiwamaro_kun きっと城柵造営のための技術者も畿内から大勢招来されたのですね(*´▽`*)。お寺を造ったりもしたのでしょうか。

2013-03-08 22:53:50
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 孝徳朝の難波長柄豊碕宮も日本書紀には「其の宮殿の状、ことごとくに論ふべからず」と書かれているので、ここが宮殿建築で一つの大きな画期になると思います。荒田井比羅夫が将作大匠を務めたこの難波長柄豊碕宮は、天武の難波宮にほぼそのまま用いられて朱鳥元年に焼けます。

2013-03-08 23:22:52
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou 難波長柄豊碕宮は、大化の改新後の宮だけに革新的だったのでしょうか。情勢も考えながら近江大津宮と比べると、天智の施策も透けて見えてくるような気がします。

2013-03-09 00:14:12
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