佐藤正美Tweet_20130301_15

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佐藤正美 @satou_masami

形而上学的存在論は、存在に関する認識を考察する論であるから、一度は学んでおいたほうがいいが、深入りは禁物である。というのは、この観念論では、「論理」の使用がうまく出来ないから。したがって、形而上学で学んだ論を軽く握って拘泥しないで、「論理」が使える仕事に専念する事である。

2013-03-01 06:49:19
佐藤正美 @satou_masami

若いSEから、「論理」の一体どこが面白いのかと訊かれた時、私は返事に困って、次の様に応えた──面白くはないが、とても役立つ技術だ、と。「論理」に関する書物を読んでも目新しい事がないので、「論理」の訓練をするには、それが使われている数学の論文を読むのが、どうしてもいい様である。

2013-03-03 17:13:30
佐藤正美 @satou_masami

私は、特に数学を好んでいた訳ではない。仕事上、やらねばならなかった。数学の苦手な文学青年が覚束ない知識で数学の論文を読めば、高級な論文を通俗的に読む(身近な事柄に適用する)という次第になった。恥ずかしがる事もない。そうやって、私の滋養になった事は確かなのだから。

2013-03-03 17:14:20
佐藤正美 @satou_masami

私の仕事の中で仮言三段論法をそのままの単純な形で使った例がない。したがって、「論理」を使う上手下手という事がある様だ。「論理」を上手に使うとは、対象の構成条件が見えて来る、つまりそれが或る「形式」として感じられるという事ではないか。それを「センスある」と云っている。

2013-03-03 17:17:23
佐藤正美 @satou_masami

数学上、パターン(同型とか準同型)というのは、形の類似性というものがまったく除かれて、一見似ても似つかない物の中に「関係の一致」だけしか残らない事をいうのである。「受注」とか「契約」のパターンというのは、数学上のパターンとは違うのである──雛形とでも云うべきものである。

2013-03-04 00:12:19
佐藤正美 @satou_masami

モデルは「事業」の条件を明らかにするために、一つ一つの条件を拾わなければならない。一足飛びに概念的構成を掴む事は出来ない。一足飛びなど妄想であると知らせるのが、「論理」を使用する事なのである。それがアルゴリズムである。そして、「論理」の使いかたに専門家はない。

2013-03-06 10:32:22
佐藤正美 @satou_masami

「事業」は具体的に直示できない。ユーザたちが重ねて来た記録(事前報告・進捗報告・事後報告)の中に現れる。システム・エンジニアは、ユーザが記録した「情報」を「現実」との間に結ばなければならない。「情報」の中にしか、システム・エンジニアにとって、「事業」は「事業」たる意味を持たない。

2013-03-07 09:34:51
佐藤正美 @satou_masami

事業の要(かなめ)のものを概念図に描いているとき、せいぜい不確かな固定できない一つの粗描を作っているにすぎない。包括概念というものの無邪気な考えは先ずそういうものである。包括概念であるが故に正しいので、包括概念においては正しく考えている気がするものである。

2013-03-08 10:02:55
佐藤正美 @satou_masami

事業の営為というものは、包括概念の中にある色々な事態ではない。様々な事態の関係である。すべてのものを座標の中に限定して、これを動かし難い事実なものに作りあげてみせてくれる関係、つまり或る一つの秩序が事物の働きを定める形式となる。それが事態の論理的関係である。

2013-03-09 08:22:32
佐藤正美 @satou_masami

科学は自然を「解釈」するだけで評価しない。事業分析のモデルというものは、事業の「解釈」も「評価」もする。だから、事業分析のモデルには科学性よりも「体験」が物を言う。いや、いや、「解釈」と「評価」の混同は、事実を見物して戸惑っている連中の感想にすぎない。

2013-03-10 10:13:47
佐藤正美 @satou_masami

事業分析では、巧みなモデルかそうでないか、それはSEの力量次第だ。なるほど、SEの才覚なら、いくらでも言い争いができる、技巧はいくらでも末梢に はまってゆく。ああしようとか、こうしようとか、すべての技巧は、めいめいの創意になって、めいめいの自意識が観たと信じる事を語ればいい訳だ。

2013-03-13 12:46:20