十津川を外れた天誅組のエピソードを法隆寺に訪ねて、ちょっと思ったこと
- sarukame999
- 3187
- 0
- 0
- 0
幕末の天誅組は、8.18政変によって「二階に上って梯子を外され」、決起から50日ほどで東吉野鷲家口で壊滅する。その記録方で、本体より一足早く南山を出た歌人の伴林光平は、天誅組決起の前、斑鳩の駒塚に住まいをしていた。 http://t.co/VXgcPSUKeN
2013-04-11 16:50:15http://t.co/VXgcPSUKeN - この写真は、斑鳩町のR25沿いにある「駒塚古墳」で、聖徳太子の愛馬を埋葬したといわれるが、実際は4世紀後半の前方後円墳。伴林光平は、逃亡中富雄川沿いで捕らわれ奈良奉行所の獄中で天誅組の記録「南山踏雲録」を書き残した。
2013-04-11 16:57:53法隆寺村からは、伴林光平と共に、中宮寺門跡に仕える寺侍の平岡鳩平という人物が天誅組に加わった。彼は光平と共に脱出後、捕り手を逃れるうちに法隆寺村ではぐれてしまうが、何とか長州へ逃げ延び、維新後「北畠治房」と名乗って新政府に出仕、大阪控訴院(高裁)の院長を務める。
2013-04-11 17:12:26その北畠治房の旧邸宅が今もあるということを聞いたのが、今回の斑鳩町訪問のきっかけだった。現在、この邸宅は「斑鳩産業」の本社所在地となっている。この場所は法隆寺門前の参道から、東へ350mほどで、中宮寺や夢殿から南南西の位置。 http://t.co/iLgPZi3XRC
2013-04-11 17:22:10http://t.co/iLgPZi3XRC - 法隆寺村で伴林光平と平岡鳩平(北畠治房)がはぐれた状況は、捕縛方が村に迫っていた中やむを得ないとも言えるが、明治になって光平の「南山踏雲録」が出版されると、治房は「置き去りにして逃げた」かのように風評されてしまう。
2013-04-11 17:29:07天誅組崩壊の過程で生まれた、伴林光平と平岡鳩平(北畠治房)との「行き違い」の件は、明治になって北畠が控訴院長として出世したことで、政治的な思惑をもって「南山踏雲録」が出版されたのではともいわれる。今は絶版だが、吉見良三氏の著作「天誅組紀行」には、一定の「真相」が示されている。
2013-04-11 18:11:19ともあれ、富雄川で捕らわれた伴林光平は、奈良奉行所では「国学者」「歌人」として尊敬を以て遇され、南山踏雲録の記述も許された。しかしその後、他の天誅組志士等と共に京都の六波羅獄へと送られ、長州藩が御所へ攻め上った蛤御門の変の混乱の中で天誅組の志士はすべて処刑されてしまう。
2013-04-11 18:15:11天誅組については、五条、吉野が舞台ではあるけれど、奈良県内のさまざまな所にその足跡があるということも押さえておきたいと思う。
2013-04-11 18:16:33さて、#法隆寺 の門前参道ですが、正直言って「なんじゃこれ」という感じ。奈良町が売り物になる前の「奈良」の観光って、こんな感じだったなあと。大型バスで修学旅行の団体がやってきて、大箱の土産物屋兼食堂で休憩して、ハイさようなら。 http://t.co/J4BU7V9u5E
2013-04-11 21:25:41この #法隆寺 参道もよく判らない。中央の松並木は確かに景観としてイイと思うけど、横断可能な場所が見あたらない。車道は左右2車線ずつで、中央には柵付きの松並木。参道の東西両側の土産物店は、完全に回遊性ゼロの状態で営業している。 http://t.co/5Q1iv3pm1v
2013-04-11 21:35:54幅30m、長さ300mほどの #法隆寺 参道松並木で、唯一の切れ目というか横断可能なのがこの場所。先日どなたかが書かれていた「業平道」の部分です。他にはなさそうでした。あの強制収用までした参道整備はなんだったのでしょう。 http://t.co/t9pHvBViBT
2013-04-11 21:45:31#法隆寺 参道の東側には、旧北畠邸の他にも、歴史のありそうな町家がいくつかあります。中宮寺が門跡寺院ということで、その寺侍などの居宅もあったのでしょう。 http://t.co/IVgzzvsCwE
2013-04-11 22:08:09こちらは、母屋は建替えられていますが、立派な蔵が健在なお屋敷です。塀の長さもなかなかのものですね。#法隆寺 http://t.co/2RVYjlo6Du
2013-04-11 22:09:47先ほどの邸宅の南側に、JA(農協)の建物がありました。未だ新しいと思いますが、なかなか雰囲気のある建物です。#法隆寺 http://t.co/JtNh3wIl6d
2013-04-11 22:11:54先ほどの業平道による #法隆寺 参道の切れ目を西に進むと、こんな所に出ます。斑鳩町文化財センターへの道だそうです。 http://t.co/mbxJFRYf82
2013-04-11 22:17:07斑鳩町文化財センターの前には、「業平道」についての、こんな案内ボードがありました。なるほど、こういうルートだったのですね。#法隆寺 http://t.co/rS6Vc2QtgK
2013-04-11 22:19:41斑鳩町文化財センターには、藤ノ木古墳石棺のレプリカが置かれていました。発掘当時の石棺はこんな水銀朱ではなかったようですが、築造時にはこうであったろうということのようです。#法隆寺 http://t.co/BpZORZoio7
2013-04-11 22:22:37さて、天誅組の伴林光平と平岡鳩平の話から、#法隆寺 界隈を訪れてみたのですが、お客さんは、修学旅行生と少数の個人客だけでした。かつての奈良市内というか、京都の嵐山などの劣化版というか。あまりお金落さないようなお客を、なんとか数でこなしている感じで、魅力的なお店が見あたりません。
2013-04-11 22:27:50仄聞するところでは、斑鳩町では「まちあるき」の魅力を再発見してもらうような取り組みを計画しているようです。たしかに、今のままでは、せっかく #法隆寺 に来た観光客も、お寺見物したらありきたりの土産物店で休憩してそのまま帰ってしまいそうです。一つのキーワードは「回遊性」でしょうか。
2013-04-11 22:32:07#法隆寺 の場合は、金堂などの主要伽藍と、夢殿、そして中宮寺と、お寺だけでも一定の回遊性があるんですね。それを、境内から外に引っ張り出して、地域にお金を落させたいというのが狙いでしょう。でも、今回思ったのは、あの参道何とかしないと「表の土産屋もダメ」なんじゃないかということです。
2013-04-11 22:38:46#法隆寺 参道の土産物店で驚いたのは「本場奈良漬」を売り物にしている店が、いくつかあったこと。それも製造しているのは奈良市の会社。なんで「法隆寺の名物」がないのだろう。それじゃ、一生一度の修学旅行生はごまかせても、知識のある個人客にはバカにされるんじゃないかなあ。
2013-04-11 22:46:01@sarukame999 西には藤ノ木古墳と最近出来た展示館、東には法起寺など見所はたくさんあるので、うまく周遊コース作るのは良いと思います。ただし、法隆寺門前の土産物屋以外にお金使う場所があまりないんですよね。
2013-04-11 22:47:43.@Natter そうなのです。だから、先の「旧北畠邸」など、参道東側などでの「まちあるき」を売り出したいという思いがあるようです。よくみると何軒か魅力的なお宅がありますし、「売り方」が大事な気がします。
2013-04-11 22:58:09かつての、#法隆寺 参道には、けっこう個性的なお店があったと思うのだけど、今回見て思ったのは、こりゃ、京都嵐山あたりの劣化版だなということ。安易に修学旅行生などをターゲットにすることで、店自体が大人の客にはつまらないものになってしまっている。本当に、何とかしないといけないようだ。
2013-04-11 22:50:47@sarukame999 あぁ、言われて納得しました。確かに昔の奈良見たいですね。カフェにいこうにもなくて(^-^;斑鳩町の物品ってないのかなぁ。法隆寺は奈良県内の寺の中で一番好きかも!1000円でいっぱい楽しみました(^-^)
2013-04-11 22:53:29