- king1234stone
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しかしまあ・・・これ以前からだろうけど、組織の運営(お金の面・考えの普及)に気苦労が耐えなかったようで・・・ベル夫人の義理の息子によれば「だれが友人であるかを見抜く能力」が欠けていた、ということで。
2013-04-26 10:47:53モンテッソーリ教師養成コースは、モンテッソーリ自身が指導することを条件とし、養成された人が、他の人を養成することは認められなかった。1920に「いつになったら認めるのか」という質問が出されている。そりゃそうやってたら広がらんわなあ。
2013-04-26 11:02:081921年。モンテッソーリ協会分裂。う〜ん、少数純粋主義と多数不純主義(となるか??でも純粋主義という言葉を使うと、対語はそうなるわな)の対立??まあ組織でよくあるこっちゃな。
2013-04-26 11:08:321922ファシスト党ローマ進軍。1923-1924の冬、マリオがムッソリーニに手紙。1924年2月ムッソリーニは世界中の領事館ににその国のモンテッソーリ運動とその影響を調査するように外務大臣に依頼。
2013-04-26 11:12:46モンテッソーリとムッソリーニには会い、1923年4月、政府は協会に法人の認可状を与えた。外務省の報告は1925に出た。
2013-04-26 11:15:491934オーストリア、ドルフュス暗殺後、クルト・シュシュニクの政権。(4年後ヒットラーの占領)ウィーンのモンテッソーリ・スクールは閉鎖かと思われたがナチ徽章をつけたエルンスト・ブシュベック政府役員が保護を約束。しかし4年後は亡命を余儀なくされる。
2013-04-26 11:30:101934年。ローマで、イタリアでモンテッソーリ・スクールが閉鎖される前の最後のモンテッソーリ会議が開かれた。ジャン・ピアジェも出席。彼はスイスに帰国してスイス・モンテッソーリ協会の会長となる。
2013-04-26 11:32:381936年。スペイン、フランコ政権ができる。モンテッソーリは当時バルセロナにいて、イギリス戦艦でイギリスに脱出。
2013-04-26 11:38:261940年。イタリアがドイツに味方して参戦。イギリスは領土内のイタリア人を拘束する命令。モンテッソーリも拘束される。マリオが抑留。モンテッソーリは高原避暑地で過ごすことを許される。
2013-04-26 11:45:02あっ「日常生活の訓練」って言葉や。これ、ADLに見えて(またそれも上がるが)達成感とか、自尊心とかそちらにもはたらきかけてるよな。
2013-04-26 11:49:071952年。5月6日。ノルトベェイク・アン・ゼー(ローマの地名か?)の友人宅で脳溢血で死亡。81歳。(もうすぐ82歳というところ)
2013-04-26 11:59:131200円の200倍は24万円かあ・・・いえ、モンテッソーリさんのロリ基金についてくる1000リラの奨学金がいくらくらいかなあ、と。1ターレル5リラとして、1ターレルには16gくらいの銀。銀価格は今g80円くらいだから24万円くらいになるかなあ、と。もうちょっと多い感じかな。
2013-04-27 14:46:381877年に新しい法律で、イタリア王国のすべての男女は、非教会系の自由主義学校で、初等科義務教育が受けられることになったが•••日本も確か学校令に反対も強かったよな
2013-05-14 10:06:55