2013年ゴールデン・ウィーク前の、芦田宏直(@jai_an)先生の「楽しく泣ける シリーズ」
ぼくは 呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに ぼくは 呼びかけはしない 傍らをゆくものさえ …泣ける 小椋佳「さらば青春」 http://t.co/ujOH5hiW8N
2013-04-26 00:54:40少女よ 泣くのはお止め 空も海も月も星も みんな うつろな輝きだ …泣ける 小椋佳「さらば青春」 http://t.co/ujOH5hiW8N
2013-04-26 00:58:27小椋佳「さらば青春」(1971年) http://t.co/ujOH5hiW8N の詳細な写真付き解説はこちら→ http://t.co/1XLrlc18Vv
2013-04-26 01:00:39この「さらば青春」は、元々は、当時激しかった学生運動への決裂の宣言歌を意味していた。「黒い水」「黒い犬」というのは、左翼運動家やその運動を指している。そしてそういった煽動に巻き込まれていく学生たちや人々の群れを指している。
2013-04-26 01:04:57小椋佳はこの当時の誰でもがかかる青春病=マルクス病から隔離されていたノンポリだった、ということだ。実際にそばにいたら、いやな奴だったに違いない。
2013-04-26 01:05:13これはしたがって、街宣運動する左翼活動家たちの風景に対する訣別宣言。マイクで呼びかけ続ける運動家たちのようには、「僕は呼びかけはしない」。
2013-04-26 01:05:38真理の比喩でもある「少女」は、そういった街宣運動する左翼活動家たちの“勇ましさ”におびえて泣いている。でもそんなにおびえて泣くことはないよ。「風も木も 川も土も みんな みんな たわむれの 口笛を吹く」。
2013-04-26 01:05:54時流に流されない周りの〈自然〉も、彼らの挙動や言説を支持しているわけではない。「たわむれの口笛を吹く」程度に彼らに冷めているのだから。だから「少女よ 泣くのはお止め」。
2013-04-26 01:06:07しかし左翼も反左翼も関係なく、この歌の喚起力は別のところにあった。それは、同胞を集めることにしか関心のない連中、群れをなす事によってしか“真理”を見出すことのできない連中、群れを為すことが真理の真理性の尺度であるかのように振る舞う連中への決裂宣言でもあったということだ。
2013-04-26 01:06:52「少女」という繊細な他者や「風」「木」「川」「土」、「空」「海」「月」「星」といった〈自然〉(=無口な他者)の中で、私はもはやノンポリの自己(自己主義的な自己)ではなく、ある世界意識を有した孤独にたたずんでいる。そういった青春の原風景がこの「さらば青春」だ。
2013-04-26 01:07:39さらば青春、というのはそういった孤独を甘受して私は同時代の青春とさらばする、という意味だ。こんなに苦々しい青春はない。というか、本来青春は数々の訣別の原体験の季節なのかもしれない。あらゆる訣別は青春のそんな苦々しい“経験”に基づいているのかもしれない。
2013-04-26 01:07:55訣別は再生の別名でもあるからだ。人が、決してあてにならない〈少女〉と〈自然〉を味方(味方にならない味方)に付けて訣別を決意するとき、そのときにこそ人は青春を生きている。たとえ何歳であっても、そうだ。さらば、青春というように。
2013-04-26 01:08:08これを叙情的なメロディーで、しかもあまり感情(抑揚)をいれずにあっさりと歌い上げたところに、小椋佳のなみなみならぬ感性が光っていた。この歌は、何歳になっても一年に一回くらいは聴いた方がいいかもしれない。
2013-04-26 01:08:26ぼくは 呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに ぼくは 呼びかけはしない 傍らをゆくものさえ …泣ける 小椋佳「さらば青春」 http://t.co/bAQzbtSxA1
2013-04-26 01:09:03