01)「由那ちゃん」呼び止められた。それだけなのに、どきり、鳴ってしまう自分が嫌、で。どこか甘いテノールが、あたしの足を縫い付けた。立ち止まったあたしの隣、並ぶように立った男の茶色い髪は、今日も陽に照らされて、どこか眩しく輝いていた。
2013-05-27 20:15:2002)「………」何かを言うわけでもなく、ただ眉を顰めて晴を見る。“昼の”笑顔を崩さない男の、その瞳の奥は今日も、読めず。目尻を下げた、柔和な笑み。あたしが夜見ることはない、“昼の”顔。「今日、泊めて」あたしの気持ちを知ってか知らずか、顔を寄せ囁いた晴に、あたしはぎこちなく頷いた。
2013-05-27 20:15:3103)面と向かって、そんなことを言われるなんて珍しくて。いつもは勝手に、あたしの家にやってきて、気まぐれにあたしで遊ぶくせに。望む通りの反応をしたあたしに、晴は薄い唇を横に伸ばした。「鍵、開けといてね?」あたしの耳朶を擽るように撫で去っていく。触れられたところから、熱が――回る。
2013-05-27 20:15:4304)滅多に言われたりしないから、だから。あたしは少しだけ浮かれていたのかも、なんて。そのことに気付いたのはすぐのこと。「あっ、晴いたー!」少し離れたところから、高い声が晴を呼ぶ。振り返った晴の腕に、華奢なそれを絡ませ。晴の耳元、囁くように唇を寄せるオネーサンと、笑みを見せる男。
2013-05-27 20:15:5505)晴は誰でもいいんだ。宿が見つかれば、それで。わかっているけど、だけど心の中を埋め尽くす黒い感情が、あたしを覆い隠す。闇に包まれる心の内。このまま早く、夜が来れば、って。夜が来れば、晴は今日、あたしのところにやって来てくれる、から。
2013-05-27 20:16:0506)「――由那由那っ、さっきね!」ぼんやり、講義室に足を踏み入れ筆箱を取り出していたあたしの隣、少し遅れてきた千依梨がどこか興奮したように声を上げる。それにぴくり、跳ねた肩。ようやく我に返ったあたし。はっとして千依梨を見れば、元々大きい瞳をさらに見開いて、言う。
2013-05-27 20:16:1607)「晴くんがオネーサンといちゃいちゃしてた…!」興奮しているはずなのに、どこか寂しそうな声。「…そっか、」きっと、さっきのオネーサンと仲良くやってたんだろうな、って。わかっているのに曖昧な相槌を打ってしまうあたしは、本当に聞き訳が悪くて。黒い感情を持て余す、そんな自分が嫌い。
2013-05-27 20:16:3008)いつだって晴を一人占めしたいって、考えてしまう。…晴は、誰のものでもない、のに。「…由那、いいの?」「…え?」突然向けられた疑問に、あたしは訳がわからずに訊き返した。千依梨はそんなあたしに、眉を寄せ。「だって由那は、晴くんの彼女…でしょ?」答えのない質問が、空気に溶ける。
2013-05-27 20:16:4209)「ちがう、よ」違う。千依梨は勘違いをしてる。あたしと晴はそんなんじゃなくて。もっと曖昧で、浅はかな関係で。「…でも、」食い下がる千依梨にあたしは否定を繰り返した。「…あたしと晴は、」そんな清い関係じゃ、ない。言い切った言葉に、千依梨は表情を歪ませた。「…由那は、」
2013-05-27 21:12:4610)「もっと自信持っていいと思うよ?」「…でも、」今度はあたしが、食い下がる番になってしまったみたいで。言葉を挟めば、千依梨はあたしの口元にシャーペンのヘッドを向けた。「晴くん、毎晩家に来るんだよね?」「…大体、は」「ほら!」「でもそれは、」「十分な理由だよ!あの晴くんが!」
2013-05-27 21:12:5811)特定の女の子の家に毎晩行くんだよ?大げさなほど毎晩ってフレーズを強調して、千依梨はさらにあたしにシャーペンを突きつける。いくらヘッド部分だからって、さすがにこんな間近に向けられると…。あたしは一歩退くように千依梨との距離を空けた。けど、その距離はすぐに埋められることになる。
2013-05-27 21:13:1112)しかも。「晴くんに、好きって言われたこと、ある?」いきなり真面目な顔でそんなことを言ってくるからタチが悪い。「…う、え!?」変化球を食らって、動揺したあたしとは対称的。あたしの反応に一瞬だけ目を見開いた千依梨はどこか楽しそうに、華やかな笑みを浮かべた。
2013-05-27 21:13:2313)「言われたの!?」「え、だから、」「晴くんに好きって?」「、だから」「うわああ彰に言わなきゃ!」「い、言わなくていいから…!」紳士な彰くんのことだ。からかわれたりはしないだろうけど、あの何でも知っていそうな笑みで微笑まれでもしたら。恥ずかしくてしばらく顔を合わせられない…!
2013-05-27 21:13:3314)携帯を操作する千依梨の手を必死に止める。細い手首を掴んで、守ってあげたくなる女の子はどうしてこんなに華奢なんだろう、なんて。…あたしにもそんな要素が少しでもあれば、自身だってもてたかもしれないのに。「…由那?」急に静かになったあたしを、千依梨が心配そうに覗き込んでくる。
2013-05-27 21:14:2615)「なんでもない」…可愛くない、あたしは。そんな千依梨の気遣いも、跳ね除けることしかできないから。「………」あたしに合わせて口を閉ざした千依梨が、眉を下げる。そんな表情をさせているのはあたしのせいだって、わかっているからどんどん苦しくなってくる。…あたし、本当に…最低。
2013-05-27 21:14:3216)「…ごめ、」「ううん。気にしないで」「でも、」「私、由那は晴くんの特別だと思うんだけどなあ」にこり、楽しそうに微笑む千依梨の笑顔は、同性でも見惚れてしまうほどに可愛くて。「…そんなことないよ」「あるよー。だって晴くん、由那といると何か違うもん」自信ありげな声に、顔を上げた。
2013-05-27 21:15:0317)「由那も、最近楽しそう」ふわり、可憐に笑って。机に両肘をつき、あたしの顔を下から覗き込むように見上げてくる。「…そう、かな」必然的に上目遣いになっている千依梨を直視することはできずに答えれば、千依梨はもう一度「自信持って」と微笑んだ。そのままの表情であたしに、告げる。
2013-05-28 20:47:2918)「ね、晴くんに訊いてみたら?」「なにを?」意味がわからずに問い掛けても、千依梨は表情を崩すことはない。「私たち付き合ってるの?って」依然変わらぬ表情で、絶対に言えない一言で。留めを刺されたあたし、は。「……、無理」迷わず告げると、何が面白かったのか、千依梨は噴き出した。
2013-05-28 20:47:4019)――というかあたしは、楽しそうにしているのか、なんて。千依梨に言われた一言が、あたしの頭の中に密かな疑問をつくる。晴が、あたしといるときは何か違う、って。でもそれはきっと“夜の”晴だからで。きっと千依梨の勘違いで。じゃあ、あたしが楽しそうに見えるのは、どうして。
2013-05-28 20:47:5120)太陽が沈んで、月が地平線の向こう側から顔を出す。1日の講義を終え家に帰り着いたあたしは、ひとりソファの上。鳴らない携帯には慣れてる。晴から連絡が来ることなんて滅多にないから。気まぐれに、あたしのもとに現れて、気まぐれに、遊んで去っていく。掴めない、手に入らない、そんな男。
2013-05-28 20:48:0121)今日の昼、あたしに言ってきたことも。その場限りの冗談だったのかもしれない。ぼんやりとソファに座っている間にも闇は濃くなって、気付けばもうすぐ日付が変わろうとしていた。解錠してある、玄関の鍵。来ないのに、あたしは馬鹿みたいに約束を守って、待っていて。…本当に、馬鹿みたい。
2013-05-28 20:48:1322)侵入してくる物好きなんていないだろうけど。一応施錠して、今日はもう寝よう、って。ふら、と立ち上がり明かりのない玄関へと足を向けた。リビングの光を背に、ロックを掛けて。部屋に戻ろうとした、とき。 ――こつん。 1枚隔てた玄関ドアの向こうから、小さくノックされた音がした。
2013-05-28 20:48:3523)突然の物音。だけど小さなそれに、あたしの肩が跳ねることはなかった。振り返ってドアに視線をやれば、もう一度、小さなノック音。静かに回されたドアノブが、鍵に遮られ、回りきらず元の位置に戻された。「………」数秒間の沈黙のあと、続いたのは鍵穴に“それ”が差し込まれる、音。
2013-05-28 21:27:4924)がちゃり、あたしの意思とは関係なく、鍵が回る。それを見て泣きたくなったのは、どうして。呆然と立ち尽くすあたしの目の前でドアノブはゆっくりと回され、それと同時にドアが小さく開く。あたしの目の前に現れた男は、玄関に立ち尽くすあたしを見て、一瞬驚いたようにその茶色い瞳を見開いた。
2013-05-28 21:27:5925)「…どうした」短く告げられた言葉に、あたしは何かを返すことなく。首を横に振ることで意思を示す。不思議そうに首を傾げながらも後ろ手でドアを施錠した晴は微かに唇を引き延ばして笑ったように見えた。「……、」「…ん?」言おうか、迷う。口を開いて、また閉じてを繰り返す。
2013-05-28 21:28:15