- nande_maori
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参加者(連衆)が予め決められた順に句を作る「膝送り」と、全員でその都度句を作り、捌き(宗匠)がその中から適当と思われる句を選ぶ「出勝ち」がある
2013-06-29 23:42:04当季の一句目「発句」で始まり、二句目「脇句」も同季。発句•脇句は季節や座に対する挨拶的要素が強い。三句目「第三」にはそこから場を転じる勢いが求められる
2013-06-29 23:42:35一句のつぎにはまったく新しい一句が来るのでなくてはならない。一句を挟んで隣り合った句が同じ趣向となることを歌仙はもっとも忌むのである。「観音開き」といって一句の両隣りが同じ造りになる場合である。(高橋順子『連句のたのしみ』)
2013-06-29 23:44:26この世界には流れが感じられなくてはならない。連衆はともに三十六景を愛でて歩く旅人なのである。そしてこの旅は後戻りのできない旅である。(高橋順子『連句のたのしみ』)
2013-06-29 23:45:28歌仙では春秋の句は三句以上五句まで続けなければならないのに対して、夏冬は一句で捨ててもよいし、三句まで続けてもよい。(高橋順子『連句のたのしみ』)
2013-06-29 23:47:35春秋と夏冬のバランス、二花三月とかはとりあえず置いといて(大事なのかも知れないけど)…複数人で協力して(当季だけでない)四季の流れを、意外性を含む句の連なりでもって味わう遊びかしら
2013-06-30 00:06:40まず第一楽章六句はおのずから温雅で重厚な気分に統一されている場合が多いようである。ここでは神祇釈教恋無常の活躍は許されない。テンポで言えばまずアンダンテのような心持ちである(寺田寅彦『連句雑俎』)
2013-07-02 16:14:09第二楽章十二句になるとよほど活発にあるいはパッショネートになって来て、恋をしたり子をかわいがったり大病をしたり坊主になったりする。しかし全体のテンポは私にはむしろ緩徐に感ぜられ、アダジオのような気持ちがする(寺田寅彦『連句雑俎』)
2013-07-02 16:14:25ところが第三楽章の十二句になると、どうもだいぶ気が軽くなり行儀がくずれてはれた足を縁へ投げ出したり物ごとにだだくさになったり隣家とけんかをしたり雪舟の自慢をしたりあばたの小僧をいやがらせたり、どうもとかくスケルツォの気分が漂って来る場合が多いようである(寺田寅彦『連句雑俎』)
2013-07-02 16:14:59ところが最終の第四楽章に入ると、再びもとの静かさに帰る、そうして「花の座」が現われ、最後に、ゆるやかなあげ句で、ちょうど春の夕暮れのような心持ちで全編が終結するのである。これはもちろんラルゴかレントの拍子である(寺田寅彦『連句雑俎』)
2013-07-02 16:15:26