具体・吉原治良とルチオ・フォンタナの影響関係について
あれって、禅画のモチーフのあれ?っーか、禅画の人が時々描く○だと思ってた。http://t.co/ulvGpvxD0f RT@kachifu 吉原治良の「円」の元ネタ
2013-07-10 06:53:02@edtion1 @takashiyam もちろんモチーフはその円なのですが、それをアンフォルメルのタッチで描くこととグラフィカルなタッチで描くことには一段飛躍がありまして、その飛躍部分について、です。
2013-07-10 10:42:08@rob_art ぶっちゃけこれなんですけどね。http://t.co/Ftvod3dEwj 無理筋かもですが気になりまして。実物の目次に「表紙:フォンタナ」とだけクレジットされてるのみで確認しようにももとの作品がわからなくて。
2013-07-11 00:51:11@kachifu ちょっと参考になるかもですが、同時期のフォンタナ円シリーズt'L-27' (1963), http://t.co/Wrgf28mwWS このタイトルでちょっと探してみます
2013-07-11 00:53:50@kachifu あとすごく基本的な質問なのですが、これ1962年ですが、吉原氏50年代から円をモチーフにした作品自体は制作しておられますよね?
2013-07-11 01:02:20@rob_art 作品を確認できていないのですが、90年代のBTの特集に平井章一氏の記述で「円が自立したモティーフとして現れるようになったのは1962年頃」「1965年に入ると円は吉原における絵画における形態とイメージ、面と空間の問題を考察するうえでの重要なモチーフへと」とあり。
2013-07-11 01:09:00@kachifu 緞帳、と言ったのは1951年に朝日会館の緞帳デザインを吉原が受け持ち、これが田中一光に影響を与えたところから、アンフォルメルとグラフィックの融合に一役買ったのかなと思ったからでして。1952年に墨人会が関西で結成されますが、そっちの影響の方が大きいのかなと
2013-07-11 01:09:23墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年(昭和27年)1月5日に京都の竜安寺石庭に集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追究の末に『「書」は文字を書くことにより成立する』『「書」は命の躍動であり生き方のかたちである』という言葉に結晶してゆきました。
@kachifu いうのが僕の理解でした。最初に円が全面化したのはたしかに62年だったと記憶しています。 http://t.co/yHXG0ip0fn
2013-07-11 01:10:32@rob_art 田中一光からの逆影響の筋は理解しています。直接的にはこれとかかなと。 http://t.co/rx9XoHFJ0J
2013-07-11 01:11:29@kachifu しかし、フォンタナから着想を得たとなると、嶋本氏に、フォンタナが穴をあける作品を作っていて既に有名になってるから穴をあける作品をやめろ、と言ったエピソードが違った意味合いを帯びてきて非常に興味深いです。
2013-07-11 01:13:54「ある日、師に呼ばれてこの穴の絵の制作を中止するように言われた。それは、イタリアのフォンタナというアーティストが同じ穴の作品をつくっていたからである。敗戦国日本の、しかも片田舎に住むぼくが先に「穴の絵」をつくったと言っても誰も信用しないと言い、師もくやしがってくれた」
2013-07-11 01:18:27吉原治良、そうなると1967年の東京での戦後初個展がカリグラフィックなのとそれ以前の2部構成だったということも裏読みしてしまう。
2013-07-11 01:29:09@kachifu ざっと漁っただけですが、フォンタナの円は50年代初頭にはその走りをみることができます。 http://t.co/C29Mvdvdq2 キャンバスを切り裂き、その周りを囲むように筆を円に走らせるものや、小石などを塗り籠め、その周りを円で囲むものは60s以降ですね
2013-07-11 01:38:40