財閥系を中心とした銀行再編の経緯

つっちー(@tsuchie88)さんのツイートを読みやすいようにまとめました。どうぞご自由に編集下さい。
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(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

歴史とは連続性を持った一連の事象であり、分析対象としてある時代区分を観察するにせよ、その前後の歴史の考察は不可欠である。銀行史において、バブルの発端は住友銀行の総本部制の導入が挙げられるのだが、それよりも前の70年代の銀行再編を一応は考慮に入れておく必要があると思う

2013-08-06 18:53:08
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

戦後の金融システムは、預金と貸出の金利に規制をかけ、各銀行ごとにシェアを割り振る方法で統制が取られていた。特に、資金調達が短期の預金に限られた普通銀行に対し、長期資金の調達は長信銀(金融債)、信託銀行(貸付信託)に限定され、重化学工業に対する集中的な資金配分が可能となった

2013-08-06 18:56:38
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

この均衡が崩れたのが、65年の赤字国債発行再開である。財政均衡主義は、わが国の国債や地方債の発行の基本であるが、特別法の制定により初めて国債の発行が再開された。本格的に、赤字国債の発行が始まるのが75年である

2013-08-06 19:00:13
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

赤字国債の発行が本格化する前に、すでにこのころから建設国債の大量発行が行われるようになる。消化先は、資金運用部(郵貯)のほかに市中銀行で消化されるようになるが、ここで打撃を受けたのが長信銀である。長信銀は、元々資金運用部や市中銀行に対して金融債(5年債)を発行していた。

2013-08-06 19:06:23
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

これが、国債というライバルが誕生したわけで、長信銀は金融債の消化先を企業や個人に求めるようになる。本来は、大企業に対する長期資金供給が任務であった長信銀は、短期資金である割引金融債(1年)の発行を急増させ、新たに証券会社や地銀を経由した消化につとめるようになる

2013-08-06 19:08:26
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

国債の発行急増による、安定的な消化先に悩んでいたのは大蔵省も同様で、産業政策としても、運転資金だけでなく安定的な設備投資資金の供給源として、都市銀行の資金調達・国債消化能力が求められるようになる。60年代から、大蔵省は規模の小さい都市銀行に対して、合併による効率化を求める

2013-08-06 19:11:02
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

こうした行政指導の中で、合併を果たしたのが太陽銀行(貯蓄銀行系)と神戸銀行(地方財閥系)が代表的な存在であるが、最大の合併が第一銀行(財閥系)と日本勧業銀行(旧政府系)の合併であろう。ただし、この合併は後の住銀の関西相互銀行合併問題(78年)を惹起させる大きな問題になった

2013-08-06 19:14:08
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

そもそも、第一銀行は澁澤榮一子爵によって設立された澁澤同族(渋沢財閥)系の都銀である。元をたどれば、三井財閥の金融部門をのっとる形で設立された経緯から、戦前には三井銀行と合併して帝国銀行となった。ただし、内部抗争の激しさから戦後になって分割され、元の第一銀行と三井銀行となった

2013-08-06 19:17:12
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

ちなみに、分割された帝国銀行は第一銀行も三井銀行も法人としては新設だったのだが、三井側は短期間だが元の帝国銀行の名を名乗っていた。帝銀事件は、分割後の三井側でおこった事件である

2013-08-06 19:20:26
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

また、合併したときの帝国銀行は、帝室御用達銀行であった十五銀行を吸収合併している。分割後の三井銀行は、十五銀行の支店網の大半を引き継いだが、行章に十五銀行のシンボルである八重桜を引き継いだ。三井銀行に華族出身者が多いことや、太陽神戸と合併後に「さくら銀行」になったのはこういうわけ

2013-08-06 19:24:05
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

一口に、戦前の財閥といってもその内容には大きな差がある。まず、第一に四大財閥があるがこの中でもとりわけ三井、三菱、住友の三大財閥は、機関銀行から商社、産業部門をフルセットでそろえた巨大な企業集団であった。

2013-08-06 19:30:50
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

これに対して、二番目に挙げられるのが金融財閥である。四大財閥の中でも、安田が典型的な例だが、野村や渋沢なども、産業機能や流通機能をほとんど持たず、金融部門が企業集団の中核であるという特徴がある

2013-08-06 19:32:25
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

三番目に、地方財閥がある。地方財閥は、帝都(東京)以外の地域で金融を中核に鉄道や軽工業、流通を中核に発展してきた中小財閥で、典型的な例が神戸川崎財閥や鴻池財閥などが挙げられる。非常に古くから発展してきた大商人が巨大化した例でもあり、キッコーマン(旧野田醤油)などもそうだろう

2013-08-06 19:36:01
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

四番目に新興財閥がある。新興財閥は、先進的な技術を応用した重化学工業を志向した財閥で、急激な成長を遂げたが、金融部門を内部に持たなかった例が多かった。典型的な例が、日本産業(日産コンツェルン)や日本窒素グループで、昭和期に急激に発展した

2013-08-06 19:38:11
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

新興財閥や、地方財閥は有力な機関銀行を持たないまま、敗戦後の財閥解体を迎えたため、戦後はどこかの大銀行に所属することになる。第一銀行の場合には、古河財閥や川崎財閥系の企業が所属し、戦前の金融財閥から銀行融資を通じた一定の企業集団を形成するようになる

2013-08-06 19:41:24
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

ただし、第一銀行は三井銀行との分割によって誕生したため、戦後の金融統制によって思うように規模を拡大できなくなってきた。支店の設置から、貸出ボリュームまで手取り足取り規制された時代、規模の拡大は合併によるものしかなかった

2013-08-06 19:42:51
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

60年代から、合併を模索していた第一が合併相手に選んだのは、行風がよく似ていた三菱銀行だった。そもそも、三井銀行との合併の失敗は、同根とはいえ三井が関東系財閥にありがちな極端なエリート主義に走っていたのに対し、第一は金融財閥的なところから実務主義を取っていたという文化の違いがある

2013-08-06 19:56:37
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

三菱は、当時でもすでに都銀上位ではあったが、保守的で慎重な経営方針は、広く財界の尊敬を集めていて、第一との行風は非常に似ていた。合併発表に先んじて、読売新聞に対して合併リークが行われ、ほとんど合併は既成事実となっていた

2013-08-06 19:58:40
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

ところが、読売新聞の報道から1ヶ月ほどで形勢は逆転し、合併を主導していた第一銀行頭取は地位を追われ、会長が頭取に復帰するというクーデーターが発生して、この合併は幻になる。元々、第一銀行内に規模の大きい三菱との合併に慎重論が大きかったことが背景である

2013-08-06 20:00:22
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

しかし、実際には合併を覆したのは行内の反対ではなく、取引先の反対の方が大きかった。合併反対派の会長が、有力取引先企業に日参して合併反対の弁をふるったことは有名な話だが、巨大産業集団である三菱グループの中核銀行との合併は、戦後に系列に入った新興財閥系企業にとっては恐怖そのものだった

2013-08-06 20:02:14
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

クーデータ成功後、第一銀行は即座に新しい合併先として日本勧業銀行を選ぶ。政府系の特殊銀行として設立された日本勧業銀行は、長信銀となる道を選ばず都市銀行として発展してきた。特に不動産や流通といった成長分野に強い銀行で、伝統産業が中核の第一との合併相手としては最適だった

2013-08-06 20:04:27
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

こうして誕生したのが、太陽神戸三井銀行の誕生まで邦銀最大の規模を誇ることになった第一勧業銀行である。ただし、合併後は旧第一派と旧勧銀派の凄惨な内部抗争に明け暮れ、規模では最大だが収益は富士銀行や住友銀行の後塵を拝する時期が実に20年近く続いた。

2013-08-06 20:06:31
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

後の住銀のよる関西相互銀行の合併でも同じことが繰り返される。第一銀行の場合は、内部対立が主因だったが、取締役会から株式まで大半を住銀が握っていた関西相互銀行の吸収ができなかったのは、取引先の強硬な反対運動にあった。関相取引先の声に押され、関西財界まで反対に周り撤回に追い込まれる

2013-08-06 20:09:16
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

住銀が、関相合併失敗を契機に、総本部制の導入や関東への進出(平和相互銀行の合併)を強化していったのは明らかで、これがバブルの芽となっていく。ちなみに、関相は、相互銀行から普通銀行に転換し関西銀行となり、幸福銀行などとの合併を経て現在の関西アーバン銀行となっている

2013-08-06 20:13:17
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

住銀が関東進出せざるを得なかったのは、西日本の飽和以上に、中京圏にまったく進出できなかったこともある。SMBCになって、中京圏の支店網を拡充してはいるが、住銀時代にはまったく考えも出来なかったことだろう。

2013-08-06 20:34:04