伊東乾先生@itokensteinの「オペラの稽古でも一通り音が取れたらそこから先は「ここ弱く、強く」式の話は極力避け、テキストの深い含意など、作品そのものと声楽家がどう向き合うか、芯から問うプロセスを踏むほうが、腕立て伏せみたいな練習100回やるより余程高い結果に直結します。」

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Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

Ph.D Prof. Komponist-Dirigent / Raummusik Kollegium Berlin. Habe viele Interesse an der Wissenschaft und am Mitleben dadurch.

伊東 乾(いとう けん)ITO, Ken
東京大学大学院 情報学環・学際情報学府
准教授 学環所属(基幹・流動教員)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/professor.php?id=379

伊東 乾(いとう けん、1965年1月27日)は日本の作曲家、指揮者、作家。東京都中野区生まれ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊東乾_(作曲家)
 
 

Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

指揮の実技というと棒を振ると思われ易いですが棒だけ振ってても人生棒に振ります^^もちろん触れなきゃ話になりませんが力がつくのは実はソルフェージュとかアナリーゼとか、あるいはピアノで弾くとか、音楽を身体に入れる様々な契機があります。プロ(&の卵)アマチュアを問わず実習者を募集します

2013-08-21 12:01:13
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

オペラの稽古でも一通り音が取れたらそこから先は「ここ弱く、強く」式の話は極力避け、テキストの深い含意など、作品そのものと声楽家がどう向き合うか、芯から問うプロセスを踏むほうが、腕立て伏せみたいな練習100回やるより余程高い結果に直結します。もちろん百回練習が有効なものもありますが

2013-08-21 12:04:00
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

重要なのは、目指すべき作品の形をきちんと自分の中にまず作ること。それなしに踊りを踊っても意味はありません。で、目の前で実際に響きの現象として、望む音楽を実現してゆくこと。ピアノ2台ならピアノ2台で美しい響きを実現しながら、オーケストラのシミュレーションもすべきで、大切なのは「耳」

2013-08-21 12:06:36
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

2,3日前高関さんがシェヘラザードを例に、事前シミュレーションと即興性の両立は難しいけど大事、と話しておられたけれど、実際この「瞬間的な楽興」自然なインプロヴィゼーションの感覚がなければ、音楽は8割の命を絶たれるのと同じ。アマチュアのコンクールとか僕は苦手なんですが理由はここで、

2013-08-21 12:10:05
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

いっぱい練習するのは、まあ大事かもしれない。例えば運指とかが危ういというような状態であれば必要だ。でも「これ練習しました」っていう発表会をどれくらい人が聴きたいかと考えれば・・・カラオケに似たものがあるかもしれません^^; そうじゃないよね、いま此処でのみ成立する音楽の刹那の生命

2013-08-21 12:11:49
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

演奏の説得力とか、ふとした瞬間への感動とか、そういうものの多くは、実は「よく練習しました」のレベルではなく、それが到達した所をゼロ地点に、その先で生まれ、育ち始めるものです。で、人間はそういう瞬間、刹那に非常に敏感な生き物。そういう地平に広がる「面白さ」「遊び」の豊かさ^^

2013-08-21 12:15:37
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

色々長い一日、一段落つきメールチェック。「練習してきただけ」の発表がいかにつまらないかは、「落研」などの発表会で聞かされる素人落語を考えれば判りやすいだろう。仮に名人上手のマネをしても、その人の本物でないのはすぐに判る。でつまらない。同じ事が我々の音楽にもそのまま当てはまります。

2013-08-21 22:21:54
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

国際コンクールなどの審査基準が判らない、判りにくいといった話がある。まあコンクールはウラもあるので^^;そのままでは言えないけれど、楽器や声楽などクラシック音楽の演奏で最終的な水準を決めるのは、単なる真似でなく本当に己の表現として高いものを実現しているかどうかが小さくありません。

2013-08-21 22:23:47
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

でその人自身の表現を本当に決めるのは器用さではなくきめ細やかな思い、あえて言えば愛情だと思う。亡くなった桂枝雀師匠は「練習魔」だったといわれるが、その「練習」とは筋肉トレーニングのようなものではなかったに違いない。自分の奥底に照らして「まだ違う、まだ違う」と問い続けるプロセスか?

2013-08-21 22:30:00
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

で、結局思うのは、名人上手の噺というのは、記憶を反芻しているのではなくて、そのときその瞬間にそこで生きているんですよね、本当に。そういう「生きていること」、音楽の演奏でいえば「即興性」とか自然な語り口になるような気がします。まあ一概には言えずいろいろですが。

2013-08-21 22:34:16
Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein

オペラの稽古が本来目指すのは、何か「解釈」なるものを押し付けて形どおりの音を出すことではなく、その歌手自身の本物の声として舞台の出来事を本物とならしめることなのだ。演出も全く同様、型どおりの振り付けで踊りを躍らせるのではなく、中から出てくるものが自ら成就するのを支えるプロセス。

2013-08-21 22:45:42