魔法使いの画帳

物語的なもの
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@HeNotShe

彼は流れ者だった。物腰は穏やかで、よく笑い、よく話し、町の人と打ち解けるのも早かった。旅の目的は何かと問えば、「絵を描いて回っているんですよ」と、上手くはない風景画で埋められたスケッチブックを見せてくれた。同じ風景が必ず二枚描かれていて、その二枚はそれぞれ、少しずつ違っていた。

2013-09-06 17:40:55
@HeNotShe

母がそれを覗き込んで顔を綻ばせた。 「この稜線の形を覚えている気がします。丘にたくさん咲いているのは、蒲公英ではないかしら」「ええ。西の町で出会った風景です」「懐かしいわ。私、少女時代をこの風景と共に過ごしましたの。たしかこの丘には、背の高い一本杉が立っていませんでしたか?」

2013-09-06 17:41:44
@HeNotShe

「ありましたね。実に立派な大樹でした」 彼がスケッチブックを一枚捲ると、同じ風景の中に一本杉の立つ絵が現れた。 「どうしてこちらには描きませんでしたの?」「雷が落ちまして」「雷?」「ええ。燃え落ちてしまったんですよ」「まあ、そうでしたの」「けれど、幸い大事にはならずに済みました」

2013-09-06 17:42:24
@HeNotShe

一本杉を指先でそろりと撫でて話す彼の声は、失われた風景を惜しむというよりは、まるで誰かを労うような、優しさを感じさせた。後になって訊ねてみれば、「この木がなければ、雷がどこに落ちるかわかりませんでしたからね」と笑った。雷が落ちると知って描いたのかとの問いには、「はい」と答えた。

2013-09-06 17:42:55
@HeNotShe

僕は彼のスケッチブックに夢中になった。一枚捲っては、ここには何が起きたのかと彼に訊ねた。彼は子供の好奇心を疎まず、いちいちそれに答えてくれた。 彼が父に言った言葉を今も覚えている。 「ご子息には、魔法使いの才能があるかもしれませんね」 父が難しい顔をした理由も、今では理解できる。

2013-09-06 17:43:28
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe 父は、僕をこの道に進ませたくなかったのだ。その才能が僕にあったとしても。いや、あるとわかっていたからこそ、その道を頑なに示さなかった。「この子は、私の子だ。他の、誰のものでもない」肩を抱いた父の温度を、今でも覚えている。その日を境に、父の表情から笑みが消えた。

2013-09-06 18:18:52
@HeNotShe

一度なら何かの間違いかもしれない。けれどそれは二度目だった。態度を硬くした父に、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。 「ご子息をこの道に誘うつもりで言ったわけじゃないんです。私自身、そんなものはいないほうがいいと思うくらいですから。隣国とは違って、ここには選ばない自由もありますし」

2013-09-06 19:29:48
@HeNotShe

魔法使いのいる町は栄える。だから隣国では、その才能を見出された者が首都に集められる。そこには今、魔法を使える魔法使いが、四人いるという。そしてそれが、隣国にいる全員である。この国に何人の魔法使いがいるのかはわからないけれど、ただの一人もいない可能性さえある。

2013-09-06 19:30:12
@HeNotShe

彼が魔法使いなのかどうか、訊ねることができたのは翌日になってだった。その日は父に、もう彼と話さないようにと言われて部屋から追い出されてしまったから。父と彼がその時に何を話したのかは、今も知らない。ただ、一晩明けた父は、また僕と彼に会話をする許しをくれた。

2013-09-06 19:30:46
@HeNotShe

魔法を使って見せてくれと言うと、彼は頭を振った。 「今ここでは使えませんよ」「じゃあ、いつなら見せてくれる?」「それは、お父上との相談になりますね」「父さんが駄目って言ったの?」「いいえ、駄目だと言っているのは私の方です」 わけがわからないと目で訴える僕を連れて、彼は町を歩いた。

2013-09-06 19:31:25
@HeNotShe

家からは随分離れたように思う。そこは普段は決して近づかない区画だった。単純に用がないこともあったけれど、近くまで来てみれば、ひどく嫌な感じがして、僕はそれ以上進めなくなった。 「そっちに行っちゃ駄目だよ」 袖を引いた僕に、彼はあっさりと頷いた。 「それでは、今日は帰りましょうか」

2013-09-06 19:31:50
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe そのあまりの態度の変化に、僕は唖然とした。こんな所まで、いったい何をしに来たというのだろうか。解らない。「どうして?」「貴方がそう決めたからです」いつもは何でも応えてくれた彼が、その時ばかりはそんな言葉ではぐらかす。「なんで!!」そんな態度が、僕は許せなくて。

2013-09-06 20:03:25
@HeNotShe

「何故と、それは私が聞くべきことですよ、ご子息。行っては駄目なのでしょう」「……だってじゃあ、どうしてこんな所に来たの」「駄目の理由をお教えするためです」 驚きと戸惑いに目を瞠る。 「私が今、魔法を使えない理由です。貴方がこの先へ行ってはいけないと感じるのと、同じことなんですよ」

2013-09-06 21:38:19
@HeNotShe

「僕が嫌がるの、知ってて連れてきたの?」「知りませんでした。ただ、嫌がるかもしれないとは思いました」「どうして」「この先にあるものが、魔法だからです」 僕は穴が開きそうなほど彼を見つめたあと、路地の奥を見た。 「まだ遠いですから、目で見ても何もないでしょう」 その通りだった。

2013-09-06 21:38:51
@HeNotShe

「どうです。貴方は、これを使いたいと思いますか」 考えるより先に、ぶんぶんと頭を横に振っていた。こんなものを使って、いいことが起きるわけがない。 「では、帰りましょう。貴方は随分と感受性が強い。ここで生まれ育ったのでなければ、おそらく町に近づくことさえできなかったはずですよ」

2013-09-06 21:39:39
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe その言葉に、今度こそ従うしかなかった。空は青く、昼下がりの穏風。だというのに、まるで黄昏時の様に僕の心は澱んでいた。 廊下を走る。駄目だと父から教わったが、そんな事さえどうでもよかった。開ける戸、驚く父の胸へと、飛び込んで。流れる涙の理由など、解らぬままに。

2013-09-07 03:03:17
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe どれ程時間が経ったのだろうか。泣き疲れて眠っていた僕の顔を、窓から射し込む月明かりが照らし出す。あの路地で覚えた身震いする感じは、まるで嘘の様に抜けきっていた。僕は、それに安堵する。あんな感覚は、心臓を握られる様な感覚は、もう二度と味わいたくないと思ったから。

2013-09-10 13:30:17
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe 「彼はどこ?」目覚めてすぐ屋敷の中を探した。その問に、父は首を横に振る。「また明日来る?」今日は帰ったのだと思った。明日また、魔法について話してくれるのだと。父はただ首を横に振る。それで、僕は漸く気付いた。彼と話す事を許されたのは、あの一度だけだったのだと。

2013-09-10 13:30:40
クラウ/先生 @CEs4294

@HeNotShe 父は、何も言わなかった。何も言わず、手にした一枚の画紙を僕に差し出して。渡された絵を、覗き込む。それは、あの路地裏を映した風景画。その中心に立つのは、路地の先に震える僕の姿。画帳から切り取られた一枚。二枚目は、ない。それだけが、彼が僕に残した唯一のものだった。

2013-09-10 13:30:54