古墳から判ること、古墳だけでは判らないこと
- k_h_musume
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わたしの~ お墓の~跡を~ 掘らないでください~ そこに~ 主体部(わたし)は~ いません~ 残ってなんか~ いません~ #埋没古墳
2013-09-07 08:23:41と…盗掘…!? "@yamanobehistory: わたしの~ お墓の~跡を~ 掘らないでください~ そこに~ 主体部(わたし)は~ いません~ 残ってなんか~ いません~ #埋没古墳"
2013-09-07 10:00:43@k_h_musume 盗掘どころか、墳丘ごとすっ飛ばされちゃった古墳を発掘する話ですw
2013-09-07 16:42:31@yamanobehistory 哀しや、或いは石室の石まで何処かの礎石に持ち去られたもうたのでございましょうか…その所在が知れるのは今や濠の跡のみ…。
2013-09-07 17:06:56@k_h_musume @yamanobehistory 私たちが濃尾平野の低地部で掘る古墳は、ほとんどがこのパターンです。現地形では全く確認できず、掘ったら基底部だけが見つかるのです。だから現在残っている古墳だけで権力関係を判断するのは極めて危険なのです。
2013-09-07 21:35:20@gijyou そうなのですね ( ゚д゚ )子供の頃の一番始めに印象に残っている古墳は、小学校の授業で取り上げられた断夫山古墳だったので、他の古墳群でもごく普通に墳丘も残っているのかと思っていました。
2013-09-07 21:55:19@k_h_musume 断夫山古墳など名古屋台地上の古墳は比較的残っているのです(それでも金山駅周辺の調査で小規模古墳がたくさん見つかります)。低地部はさらに酷く、40mクラスの前方後方墳ですら、地表に痕跡を留めません。群集墳などは1基地表に残っていれば、十数基が埋もれています。
2013-09-07 22:03:26@gijyou そういえば金山駅、大きな改修工事がありましたね。そうでなくとも名古屋市南部は大規模な干拓もありましたし、木曽三川の付け替え事業もありましたね。近世の宅地化前に姿を消した墳丘も多いのですね。
2013-09-07 22:27:23@k_h_musume そうなんです。しかしいわゆる古墳屋さんは、墳丘があり、埋葬施設や副葬品がある古墳だけで全てを語ってしまう傾向があるので、濃尾平野低地部は弥生〜古墳早期にあれだけ栄えたにも関わらず、それ以降は無人の原野であるかのように扱われてしまいます。それが不満なのです。
2013-09-07 22:31:00@gijyou 「尾治国」として令制国となるまでの間の事跡(を、うかがえる遺跡)が抜け落ちてしまっている、ということでしょうか?。
2013-09-07 22:51:12@k_h_musume 名古屋台地上の遺跡は良いんです。低地部は集落はあるのに古墳が見つからないので評価されない。特に古墳時代の研究者は集落を等閑視して古墳のみで社会や政治組織を考えるので、彼らには濃尾平野低地部が全く評価できないことが問題なのです。これは研究者の姿勢の問題です。
2013-09-07 22:55:35@gijyou 古墳が社会構造の指標になるのは、古墳の構造や副葬品で時代・地域ごとに比較比定できる材料が豊富だからということですよね。ところが古墳も必ず残るとは限らないわけで、他の何かを指標とする考え方が必要な場合もあるのですね。
2013-09-08 00:25:06@k_h_musume 私に言わせれば、古墳は所詮、特定階層の、しかも死後の世界を現したものです。ですので、被葬者の生前の姿をストレートに反映しているか否かも実は良くわかりません。少なくとも彼らの日々の暮らしぶりを古墳から復元することは不可能だし、一般階層の生活は見えてきません。
2013-09-08 08:19:48@gijyou おはようございます。あ、素人レベルですがGijyouさんの仰ることと似たようなことを思っていました。古墳とその副葬品はその時代の生活の某かは反映しているだろうけれど、それがすべてではありませんよね。→
2013-09-08 09:22:51@gijyou 現代の研究者の方々にとっては大きな(文字通り^^)研究対象で、一般の方にとってもシンボリックな建造物であるけれど、そこから得られる情報はごく限られているのですね。研究成果が様々に挙げられて、考古学に興味の薄い方にも訴えるものは大きいのでしょうけれど…→
2013-09-08 09:26:19@gijyou 古墳があれば、その近くに集落があったのだろうとは、私のような素人でも考えることができるのですが、ではそこにどんな人たちが住んで、どんな暮らしで社会構造をしていたのかは「弥生時代と大差なかった」で済まされている気がします。本当にそうなのかも知れませんが…。
2013-09-08 09:45:49おはようございます。昨夜からの、Gijyouさんの古墳から判ることと一般階層の生活との剥離についてのお話が興味深いです。
2013-09-08 09:30:19@k_h_musume ありがとうございます。さらに言えば、古墳時代研究者の多くは、何故か直前の弥生時代には全くの無関心なのです。時代区分は極めて現代的なものですが、前の時代のことを知らずに、次の時代のことが理解できるはずがないと私は思うのですが…こればっかりは本当に不思議です。
2013-09-08 09:49:30私は小学校二年で静岡から名古屋へ転校したのですが、その後、それこそ断夫山古墳が授業でとりあげられて遠足でも行きました。でも子供心に登呂遺跡の方がずっと面白いのになあと思った覚えがありますσ(^^;)。
2013-09-08 09:31:24なので、その後、貝殻山貝塚が取り上げられた時にはとてもワクワクしました。そしてやっぱり遠足で行って、当時その場所には貝塚しか無かったのですが、初めて登呂遺跡に行ったときと同じように、ここで大昔の人たちが暮らしていたんだと思って、とてもドキドキしました。
2013-09-08 09:33:56時代のことも何もわかってない子供だったので仕方ないのですけれど、貝殻山貝塚にも近くに登呂邑のような家があって、人が住んでいたんだと勝手に考えてドキドキしていたんですね、きっとσ(^^;)。
2013-09-08 09:36:39今思えばその想像の邑はそれこそ朝日遺跡かと思うのですが、子供の空想を遥かに超えた大集落で大きく広く開けて、しかも複雑な社会構造だったわけですね(´∇`*)。
2013-09-08 09:54:36@k_h_musume 最近私が注目しているのは、むしろ連続性の方なのです。近畿地方はいざ知らず、私達の地域では集落構造など、弥生時代と古墳時代では、ほとんど変わっていないように見えます。極端に言えば、方形周溝墓が前方後方墳や前方後円墳に置き換わっただけのような気すらしてきます。
2013-09-08 09:52:47