インランド・エンパイアについてのメモ

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堀井義博 @yoshihirohorii

リンチ作品は、意外と文系脳の人には理解し辛いのかなぁと感じる理由は、だからそこにある。彼の作品は推論的であり、実験的であり、論証的なのだ。ここでは、感情は、他の要素と同様「マテリアル」として用いられる。要するに、リンチ映画においては、感情は物質であり、幾何学である。

2013-10-26 13:25:04
堀井義博 @yoshihirohorii

表面的な「テーマ」は沢山あって、多重構造である。例えば物質と非物質との境界の探求などもその一つ。同じく生物と無生物との境界の探求もその一つ。それから、自然界における「意味」というものの位置と振舞いについての探求もその一つ。

2013-10-26 13:28:35
堀井義博 @yoshihirohorii

これらはすべて極めて抽象的な「テーマ」で、それぞれ、それ自体を "これ" と指し示すことはできない種類のものだ。でも、先の「分かる瞬間」の話と同様、普段から我々すべての人間が毎日関わっている事柄でもある。そういう意味で、文字通り「普遍的」な主題でもある。

2013-10-26 13:34:22
堀井義博 @yoshihirohorii

そんなこと探求してどうすんの?という質問は完全に愚問だと思う。それは科学者に対してあんたのやってる研究になんの意味があんの?と言ってるのと完全に同じことだからだ。人間がいる。その人間が感じたり思考したり知ったり分かったりする。だからそのメカニズムを探求する。ただそれだけのことだ。

2013-10-26 13:37:18
堀井義博 @yoshihirohorii

歴史(storia)もの、と呼ばれるジャンルはドキュメンタリーだろうか?それともフィクション(storia)だろうか?現実的な認識としては、歴史ものは長らく後者に分類されて来たと思う。でも最近このギャップを埋める努力が見られる。それは史実の再現ものというジャンルで起こってる。

2013-10-26 14:41:17
堀井義博 @yoshihirohorii

もちろん、取材対象の当事者本人が登場することが出来ないため、このジャンルでは、代理人を立てることになる。そこがいわゆるドキュメンタリーとは大きく違う点だけど、でも、いわゆるドキュメンタリーでも、肝心の当事者本人が不在の場合は非常に頻繁にあるじゃないか。それと何が違う?

2013-10-26 14:43:52
堀井義博 @yoshihirohorii

フィクションと違いドキュメンタリーには真実がある、みたいな言い方がよくあるけど、ハッキリ言ってちゃんちゃらおかしい。そういう言い方には真実についての誤った理解しか感じられない。ドキュメンタリーは事実をもとにしている、がせいぜいだと思う。そしてそれは非常に多くのフィクションも同じ。

2013-10-26 17:05:06
堀井義博 @yoshihirohorii

「死」は多くのフィクション・ノンフィクションで扱われるテーマだけど、リンチもその一人。ただし彼は「死」を、生物が無生物へと変化/進化する境界として捉えている面が強い。そしてそのコンバージョンをこそ追求する。これは文学に幽閉され自由を失った「死」を解放する手段だと私は理解している。

2013-10-26 17:31:30
堀井義博 @yoshihirohorii

同様に「愛」もまた、物質と非物質とを相互変換する境界として捉えているように思える。「愛」が我々人間にもたらす「化学反応」は、「愛」の力に触れたことがある人なら、誰でも経験があるところだと思うけど、それをリンチは大真面目に捉えようとしているのだと思う。

2013-10-26 17:35:21
堀井義博 @yoshihirohorii

また純粋に物質の連鎖的反応があるだけで「意味」が存在しない自然界と、絶えず意味を見出し、作り出し、追求する人間界との相互変換も探求されているように思う。

2013-10-26 17:44:56
堀井義博 @yoshihirohorii

これらの抽象的なテーマは、別にリンチに固有のものというわけではなく、もっと普遍的で「ポピュラー」なものだと思うけど、何と言えばいいのか、他の人は、これらを「説明」しようとしてしまってることが多いような気がする。

2013-10-26 17:48:20
堀井義博 @yoshihirohorii

一方のリンチは、それを正確に再現しようとする。理論的に突き詰められた「生命誕生のメカニズム」なら試験管の中ででも再現できるはずだ、とする科学者たちの動機や手付きに、これはとても似ている。

2013-10-26 17:49:57