茂木健一郎氏 @kenichiromogi 第1100回【移ろいゆくものの中の、いのち】連続ツイート

2013.11/25 茂木健一郎氏 @kenichiromogi 【移ろいゆくものの中の、いのち】連続ツイート …このところ、朝走っていると、木々の葉が色づいてきれいなのが目立つ。黄色や、赤や、なんとも言えないいろあいの葉っぱが木立を飾っているのを見ると、きれいだなと思うし、何とはなしに切なく、そしていてもたってもいられない気持ちになってくる…
0
茂木健一郎 @kenichiromogi

連続ツイート第1100回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、昨日やれなかった、花鳥風月、いくでえ。

2013-11-25 07:30:02
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(1)このところ、朝走っていると、木々の葉が色づいてきれいなのが目立つ。黄色や、赤や、なんとも言えないいろあいの葉っぱが木立を飾っているのを見ると、きれいだなと思うし、何とはなしに切なく、そしていてもたってもいられない気持ちになってくる。

2013-11-25 07:31:36
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(2)京都に仕事で時々行くが、一番混んでいるのは紅葉の季節で、ホテルがどこもとれないし、車も渋滞する。人々が、そのような大変な思いをしてまで、木々が葉の色を染めている、その風景を見に行くということは、それだけ人の心を惹きつけるものがあるということだろう。

2013-11-25 07:33:28
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(3)言うまでもなく、紅葉は、葉という生命体がその役割を終え、やがて地面に落ちて土に還っていく、その移ろいの時に起こる現象である。葉の色が変わるのは、その過程での化学的変化に伴うもので、それ自体に進化論的な意味での適応度を上げる作用はない(恐らく)。それを人間が愛でる。

2013-11-25 07:34:59
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(4)紅葉を前にしたときの、うわーっといても立ってもいられない気持ちは、その景色が、生命の移ろいいく、もう止めることができず、戻ることもできなプロセスの、その鮮烈なる切り口を表しているからで、つまり、紅葉の色というものは、時間を見ているのと同じことなのである。

2013-11-25 07:36:24
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(5)移ろい行くその時に、命というものの本質が顕れる。春の桜も同じことである。満開の桜を前にして、私たちはなんとはなしに落ち着かない、いてもたってもいられない気持ちになるが、それは、花がいっぱい咲いているその風景が、桜の樹という生命体の、ほんの一瞬の移ろいを表しているから。

2013-11-25 07:38:48
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(6)桜や紅葉は、生命というものの移行の、とりかえしのつかない進行を示しているが、時が経つのは、自然界だけのことではない。人間の世界においても、私たちがいても立ってもいられず、心を動かされるのは、もう二度と戻らない移ろいの、その節目においてなのではないか。

2013-11-25 07:40:08
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(7)たとえば、送別会。今までずっと仲良くしていた友人が、遠くに行ってしまう、というような場合、そのような場所での移ろいの印象は、どこか、桜の花や、紅葉の色に似ている。顔のちょっとした表情や、ふとした仕草などに、人生という季節の移ろいの表情が見えてくるのである。

2013-11-25 07:41:30
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(8)Carpe Diem。今を生きる。「今、ここ」に没入して、自分が時間の流れと一体となること。フロー状態に入っての、最高のパフォーマンス。桜や紅葉は、そのレッスンとなる。今見なければ、やがて消えてしまう風景が、私たちを自然なCarpe Diemへと誘う。

2013-11-25 07:43:16
茂木健一郎 @kenichiromogi

うい(9)注意深く観察すれば、桜の花や、紅葉の色に似た時の移ろい、生命のとりかえしのつかない進行は、日々の街の表情や、自分の親しい人の顔の中にもある。だから、何気ない日常の中に、たくさんの桜や紅葉を見ることができる人は、「もののあはれ」を知る人だと言えるのだろう。

2013-11-25 07:45:19
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、連続ツイート第1100回「移ろいゆくものの中の、いのち」でした。

2013-11-25 07:45:39