とはいっても、思い返してみれば彼女はずっと「マリー」だった。何度か目を盗んでしまった俺は、い つしか彼女の名を知っていたけれど。 内気な彼女のこと、もしかしたら最後の最後まで名乗らずじまいだったかもしれない。
2014-01-06 20:36:20「まり」 彼女がうつむきながらつっかえながら告げた名前を、幼い俺は当然のようにMaryだと受け取った。 きっと、そういう存在なんだと思ったから。街はずれ森の奥、人目につかない小さな家で、淡々と今日を待っていた――お姫様みたいな女の子なんだから。
2014-01-06 20:37:58「瀬戸、幸助」 親が唯一遺してくれた名前を、嫌だなんて言ったらバチが当たるけれど――その時ばかりは、それが少女に比べてずいぶん野暮ったく思えて、妙に恥ずかしくなったのを、今でもハッキリと覚えている。
2014-01-06 20:39:39「セト! あなたセトっていうのね」 直後、あまりに某国民的アニメを思わせる物言いに盛大に吹き出すことになるのだが。 笑われた、と焦る彼女の頭を撫でてやったとき、きっと、もう、俺の中の歯車は完成していた。
2014-01-06 20:41:56【IA】想像フォレスト【オリジナルPV】 (4:12) http://t.co/XFzcckqcRt #sm16846374
2014-01-06 20:45:00マリーが長い長い本を読み終えた気配がして、俺は意識を戻す。 森の奥の隠れ家は今日も静かだ。春めいてきた風も、木々を撫でるばかり。 最近は街の景色が変わりすぎる。この迷い森のほうがまだマシよ――なんて、小鳥たちの世間話が聴こえてくる。
2014-01-06 20:48:09「終わりっすか?」 「うん、次の取ってくるね」 貸した音楽プレイヤーを一旦外し、マリーはふわりと席を立つ。この間飲ませてもらったのと同じ、ハーブティーの香りがした。
2014-01-06 20:51:12学校に行かないという選択肢を、楯山の家族のみんなはすんなりと認めてくれた。 いくら制御がきくようになったといっても、大量の人間が詰め込まれた空間で集中力と戦い続けるというのは、俺にとってお世辞にも良い環境とは言えなかったから。
2014-01-06 20:55:28爆弾を抱えて、うたた寝に耐えているようなものだ。 中学を出たら、高校に上がらずに働こうということになっている。まだ、人に流れのある街の中で、常に何かしら作業をしているほうが、俺には向いているだろう。
2014-01-06 21:01:08マリーはといえば、踏み台の最高段まで登って本棚に手を伸ばしている。手が届かないこともないだろうけれど、危なっかしいのには違いない。 「ああ、取る取る。どれっすか」 「そこの、茶色いの」
2014-01-06 21:08:11と、言われても、だいたいどの背表紙も茶色い気が。 「これ?」 仕方がないので適当に取り出してみると、その感触は本にしてはあまりに軽い。 古ぼけた、見たことのない装丁。しかし、画用紙が数十枚綴じられているということは。
2014-01-06 21:10:00「あ、だ」 「スケッチブックっすね。いつの時代の……」 「駄目!」 何気なくページを開こうとした右手を、マリーが袖布だけ掴んで引き寄せる。 目が、合った。
2014-01-06 21:11:07――それは駄目。 子供の頃に描いた絵だから。下手だから。バッカみたいな妄想だから。 それもだけど、そうじゃなくて、それは――、セトと会う前に描いた王子様の絵だから。 その絵じゃ、王子様がセトじゃないから。 駄目。
2014-01-06 21:16:08気付けば、マリーは座って次の本を読んでいた。 小鳥たちの世間話は、カラスの遠吠えにとって代わっている。 「あの」 「あ、セト。おはよう」 「俺、どのくらい石になってたっすか」 「んっと。日が落ちてくるくらい」 「ああ、確かに日が落ちてるっすね……」
2014-01-06 21:23:07時計もカレンダーもないこの家にそのあたりの感覚はあまり存在しない。俺も大して気にしない。 それよりも、だ。 今のは絶対わざとだった。最初に間違えて俺を石にしてしまった時なんて、この世の終わりみたいに泣いていたっていうのに。
2014-01-06 21:25:30ちょっとだけ肩を落としてみせると、物言いたげにでも見えたのか、マリーがくすくすと笑う。 「セトが勝手に開こうとするからだもん」 「悪かったっすから。うん、人のものを勝手に見るのは良くない」
2014-01-06 21:30:52それは、俺が言う言葉ではない気がした。 だいたい、――見てしまったのとほとんど似たような結果は、現に得ていて。 王子様。
2014-01-06 21:32:22「……セト、もう帰っちゃう?」 窓の外へに視線を移して、マリーは一旦本を閉じた。 確かに、そろそろ帰路へつかないと、帰り道で野犬への土下座交渉を強いられることになりかねない。
2014-01-06 21:41:50「もしかして、明日も来てくれる?」 ここ数日の通い詰めっぷりのせいか、マリーは目を輝かせてそう尋ねてくる。 「んー。金曜日には」 「きんようび?」
2014-01-06 21:43:07調子はずれのオウム返しを投げられたけれど、こちらも少しあいまいに笑い返して、「じゃあ、また」と家の扉をくぐる。 ちょっとぐらい、予定不明でわくわくしてもらってもいいんじゃないか、なんて、そんな言い訳を内心でして。
2014-01-06 21:45:18そして、二人きりの森の中、誰にも見えないように、少し冷たいレンガの壁に頬をつけた。 「王子様、か」 お姫様のような女の子を、いつか見た絵本のように、助け出したいと思った。 そうしたら、自分が何にあたるのか、考えたことがないといえば嘘になる。
2014-01-06 21:57:37