このまとめの元になった内容は、以下のブログにまとめてあります(が、ちょっと古いので、色々違うことを言っています)
読み手の裁量~『プリンセスチュチュ』の物語~
http://d.hatena.ne.jp/mushani/
『プリンセスチュチュ』は、書き手と登場人物の相克の物語と言われるけれども、実は最強なのは「読み手」なのではなかろうか。登場人物に真の心を与え、物語世界を形作るのは、読み手の裁量だ。
そもそも、開かれない本の中に閉じ込められた物語は存在するのか? どんなに書き手が思いを込めて書いた物語も、誰にも読まれなければ、存在しないも同じだ。
物語を生かすも殺すも、読み手次第。解釈はすべて読み手にゆだねられ、すでにできあがった物語に書き手が干渉することはできない。本来ならば。
お終いは必然、閉じないお話は残酷なもの。
しかし、『プリンセスチュチュ』世界のドロッセルマイヤーという書き手は、物語の完結を阻まれ、死んでも物語を描き続け、登場人物に干渉できる存在である。書きあがっていない物語であれば、後出しの設定も、どんでん返しも思いのまま。登場人物は見えない手に操られ、読み手も二転三転する物語に翻弄される。
所詮ただの人間のあなたにできるのは、本を調べる事くらいかもね。
このサイトは、「その物語を開き、読むのは誰か。」の視点から、『プリンセスチュチュ』というアニメを読み直してみようという試みです。検証、というよりも、妄想、創作の部分がかなり大きくなりますが、単なるお遊びだと思っていただければと思います。
読み間違える自由も読み手の裁量のうち。完結した物語は、読み手のもの。ということで。
(ちなみに制作者の方に、「私はカロンさんが黒幕だと思ってるんです!」と言ったら(言うなよ)、笑って否定されました!なので、これは本当の本当にただの妄想です)
- 空想の友達 - 塩坪いく子
http://jinbun.cc.kochi-u.ac.jp/humanity/ningen/006-009.htm
では、私的な現実の中にいる空想の他者は、空想的存在ではない現実の他者と根本的に違うものなのだろうか。私たちが認識する現実世界は脳が作り出す世界であり、物理的世界に依拠していてもその完全なコピーではない(完全なコピーとは何かという問題はさておいて)。空想的存在ではない現実の他者でも、「私により認識される他者」という点では私的現実の中の想像上の他者と同じである。物理的世界に依拠している分、私および他者により確認可能な感覚特性を有しており、他者と共有可能な「現実の他者」として扱われることになるけれど。でも、リアルさという点ではひけをとらない空想の他者の存在は、そこからこぼれ溢れるものがあることを示している。そしてこのこぼれ溢れたものは、私が生み出したものなのに、「もうひとりの私」ではなく、空想ではあっても「他者」として登場している点が興味深い。それは、まるで「私」あるいは「私の現実」は、他者との関わり世界のなかで創り上げていってこそ自然で豊かな世界となると言われているかのようである。人生訓も、単にその内容だけを語るなら退屈な説教だが、他者を登場させて他者との関わりや会話の中で語られるなら、それはドラマとなり感動を生む。そのようなものなのだろうか。
ことばには、他者と共有する現実を切り取り確定するための道具として機能する側面がある。だが、ことばですくい取ることができないものがあると感じている人は多い。同じ様に、他者と共有可能な「客観的現実」に日頃意識の中で登場させていないもの、あるいはそこに押し込めることができないものが、「私」の中にたくさんあるのかも知れない。それが子ども時代には空想の友達として私的現実からさまよい出、客観的現実と同居するような形で現れるのかも知れない。そして多分大人になっても別の形で。ときには私たちの世界を豊かにし、ときには妄想と呼ばれかねない種々のバーチャルリアリティとして。私は、道の真ん中で呆然と立ちすくんだ日以来、山の中の村もそこに住んでいる女の人も二度と見たことはない。懐かしく感ずる一方で、自分および他人のそれぞれの眼前にあのようなものが展開している世界で共に暮らす、という事態を想像するのはやはり恐ろしくもある。夢と分かっている中で展開されるなら一夜の楽しみ、一夜の感慨だけれど・・・・。
みゅうとって、ふぁきあの大人になれない心の象徴というか、辛い現実(両親死亡)の前の盾(騎士としての存在意義を成立させるために存在する「王子」)なので、ふぁきあさんが現実と向き合えるようになれば、いつの間にか消えて行くと思う。
2014-01-25 12:40:0413話でふぁきあは運命(死)を受け入れた。 14話で、王子はふぁきあから離れた。
2014-01-25 12:45:30両親を亡くす→カロンにお前は強い子だ=騎士の生まれ変わりだ、と言われる→王子とカラスを読む→「王子がいないのに騎士だけがいるなんて滑稽だわ」→ふぁきあを「王子を守る騎士」たらしめる存在としてのミュートス(伝説の人)=王子出現→ふぁきあにみゅうとと名付けられ、ふぁきあの支配下に。
2014-01-25 12:53:04子供にありがちなヒーロー妄想が強く願われ(思い込まれ)、切実に必要されることで、「出てきちゃう」金冠町。 それだけ、両親を亡くしたふぁきあさんのダメージが大きくて、立っているために「王子」が必要だったのだと思うと、切ないじゃないですか!(妄想)
2014-01-25 12:59:44【死を受容する現実とは別の「もうひとつの物語」そこに新たな意味を見出し、書き換えながら生きている】 http://t.co/PxoDVNrik5 終末期の患者さんが生きていくための希望を紡ぐための物語。 普通の状態でも、誰もが多かれ少なかれ、現実とはちがう物語を生きている。
2014-01-25 13:12:53だから、(本当の自分=両親を失った弱い子供とは違う)物語の騎士にこだわり、王子さえ出現させてしまったふぁきあが、運命(人は100%死ぬ。死を恐れていては何も進まない)を受け入れたタイミングで王子が離れ、騎士(偽りの物語)をやめて初めて物語を書けるようになるのはしっくりくる。
2014-01-25 13:20:00子供が空想のお友達を持つだけなら、やがて空想と共に消えるだろうけど、現実に肉体を持って現れたら、魔物だ。 みゅうとがあり続ける限り、ふぁきあは騎士であり続ける。物語は進まず、王子は若い無力な存在のまま、ふぁきあは支配し、心はかわらない、かたくななまま、だが、肉体は年を取る。
2014-01-25 13:57:32王子をミュートスと断定したカロンのみゅうとに関する言葉は、現実に10年ともに暮らした子供に対する物でも、貴ぶべき「王子」に対する物でもない。アニメの中で、カロンとみゅうとが直接会うことはなかった。 あおとあはプリンセスチュチュも、王子(と鴉)も、ふぁきあに言われて初めて認識する。
2014-01-25 13:59:14そこも逆で、『王子と鴉』を読んだふぁきあが、両親の死をカラスに殺されたと思うようになった(カラスなら騎士のボクと王子でやっつけられる!)んじゃないかしら?(両親の死を幼い子供に誤魔化すのはよくあること) さあ、『星の民のクリスマス』! http://t.co/asVtxKXuj8
2014-01-25 14:54:49@p0tt0m 「カラスに両親を殺されたふぁきあがニコニコ『王子と鴉』を読むのは変だ。ましてや、後あとになっても、一気に豹変するほどのトラウマだという表現がある」時に、どう考えればあの場面が不自然ではなくなるのか、の回答が、「カラスに殺されたのは真実ではない」という解釈方法です。
2014-01-26 00:21:54書いた物が現実になる力、それも鳩の迷信行動 http://t.co/Jem1qSE9K0 的な何かではないか。自分には特別な力があると思い込むのも、とても子供らしい。 という『ミスター・ノーバディ』。 http://t.co/7NN4UTdLdB
2014-01-25 16:00:54↑この映画は世界最高齢の老人が複数の人生を語る物語ではない(複数の人生なんてムリでしょう。何度も若いうちに死んでいるのに)。
ただ、9歳の子供が空想した未来のお話です。将来、どのような形で死ぬのかは、全く不確定。そのときが来るまで、無限の選択肢から、可能性を選んで生きていく。そういう映画です。
そうすると、騎士から書き手、妄想から妄想へになってしまう。でも、書いた物が現実になるかどうかはあまり重要ではなく、自分で物語を書くことが、踊りと同じく表現することそのもので、それが肝心なのだと。魔法ではなく、自分の意思と力で表現することだけが、本当に現実にアクセスできる方法だし。
2014-01-25 16:14:23魔法がなくても、書いた物には現実を変える力があるし、ふぁきあとあひるは信頼で結ばれているし(あひるってそもそも何者なんだろうね?)。 『プリンセスチュチュ』ってふぁきあの妄想のお話が発端で元凶だよね、という感じで、『ミロクローゼ』。 http://t.co/w6UNn73ai5
2014-01-25 17:08:13『オトナアニメ』購入。『プリンセスチュチュ』のところ、個人的には嬉しかったので、やっぱり買ってしまった! サイレントマジョリティ!でも、「おれには口がある、だから叫ぶ」ですよ! http://t.co/yGecRSFRap http://t.co/H1rpbtH2Um
2014-01-25 17:16:23