佐藤正美Tweet_20140116_31

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佐藤正美 @satou_masami

「比較」を「証明」と間違えて、類推から起こる間違った証明を与える場合も多々ある。符号の厳正さによって正しく「条件」を観るには、数学に頼るほかない。ロジシャンは、一定の長さの記号列を目の前に置いて形式的構成を立ててゆく。

2014-01-19 05:00:03
佐藤正美 @satou_masami

「論理」の性質上、公理は少数の仮定に限られ、その集まりと配列によって多くの定理が形成される。だから、孤立した符号は何も表さない。一つの項は他の項を変化させる事なく、あたかも原子のように不変のまま止まりつつ、項の意味(値)はその占める位置と他の項との結合から生じる。

2014-01-19 05:00:50
佐藤正美 @satou_masami

構成状態における論理は、つねに注意力を個々の項からそらせて、全体の上に導こうとする。部分を全体に従属させ、「関係」に従って、項から項へと「物」(entity)を再び組み立てる。「論理」が目的に達するのは常にこのやりかたに依る──「分析」と呼びなされた行為である。

2014-01-19 05:01:11
佐藤正美 @satou_masami

「事実」を掴むには周到な用意がいる。「事実」とは、学問により組み立てられた様々の観念によって構成された論証である。地球が円い事は事実である。この事実を掴むために入念に構成された様々な「関係」に依って、沢山の事実を一緒に検討しなければならない。こういう諸事実の構成は幾何学的である。

2014-01-19 05:02:26
佐藤正美 @satou_masami

幾何学は代数に翻訳できる──それぞれの事実は、同じ特性(前提)の条件を与えられている。

2014-01-19 05:03:03
佐藤正美 @satou_masami

なんらかの証明のために「論理」は使われなければならない──この事は再三再四くり返して言っておいてよい事であろう。そして、「論理」は、「事実(現実)」を凝視し続けようとする持続的な認識力として現れなければならない。

2014-01-19 05:04:03
佐藤正美 @satou_masami

モデル上、私は「性質」という語を殆ど使わなくなった。粘土で作られた馬は、「馬」に似ている──類推(あるいは写像)には、何も共通の性質を必要としない。ただ思考に訴える「関係」というものの一致があればそれでよい。嘘だと思うなら、「言語(符号)」の、命題の「性質」を考えてみればよい。

2014-01-19 05:04:46
佐藤正美 @satou_masami

「おのが分をしりて及ばざる時は速かにやむを智というべし」(徒然草131段)。私に欠けている知恵の一つである。いったん始めたら自分の限界を自覚せずに猛進する。完全に為したいという気持ちが いずれ鋭い論を立てたいと身のほども知らずに空想する訳である。荒唐無稽な態でしかない。

2014-01-23 16:56:40
佐藤正美 @satou_masami

論理規則は文芸作品ではないが、それは律動に乏しく心像に乏しく、文芸作品に較べて魅力ないものだというのではないが、ただそれが情念や感動に属すべきものを全然持たず、寧ろそれらを排除する事によって論理を定立する。だから、それは音読されるのではなくて、眼で読まなければならない。

2014-01-23 16:57:17
佐藤正美 @satou_masami

音読しないで眼で読むということは些細な特有性ではない。この特性は凝視する事を養う。思考の極めて顕著な表徴なのだ。印刷された証明式に対して、読者は心像を描けぬために時として不安を感じる。数学によって十分に訓練されていないかぎり、自然言語から証明式に移られないのはこのためだ。

2014-01-23 16:57:51
佐藤正美 @satou_masami

証明式では、未踏の地を歩いた先人の足跡の上に自らの歩行を重ねるように、一歩ごとに自分の歩みを確かめなければならない。先人の足跡が我々に手引きする道を通してでなければ、我々は目的地に至る事を学び得ない。そして目的地に至る道は一つではないので、結論だけで満足してはならない。

2014-01-25 00:01:49
佐藤正美 @satou_masami

私にとって数学のドアの1つ1つは開けるには重かった(今も重い)。頭の良い人が簡単に開けるドアを私はゆっくりとじわじわ開けて来たし、今後もそうだろう。頭の良い人々が決してやらない道草を食って、私にもひとつの確信が生じた──真面目であれ、だが真面目くさってはいけない、と。

2014-01-25 00:02:20
佐藤正美 @satou_masami

研究家でもないかぎり、理論は正面切って語るものではなく、それぞれの場合に応じて軽やかに使うべきものである。理論的に論理的に完全であるにもかかわらず魅力がない、つまり言っている事は正しいが、その正しさに心を動かす説得力がない場合がある。鈍臭い骨折りを「軽み」において表現する事。

2014-01-25 00:02:56
佐藤正美 @satou_masami

論理形式に従って構成した「関係」を決して忘れない様にしているなら、キー(key)概念も少なくともアクセス効率として悪い事ではない。もしキーが何のために有効かという事を承知しているなら、キーという概念を加えたところで、事物が持っている成立条件・制約条件が何一つ変わる訳ではない。

2014-01-26 20:34:24
佐藤正美 @satou_masami

ひとつの理論(それを具体化した技術)を追究していると、いずれマンネリズムに陥る。だが、この持続的な探究が逆にマンネリズムを免れる事にもなる。理論上の問題は少なくとも10年くらい続けなければならない、そういう性質のものだけが探究に値する筈だ。「いつも珍しく初めたるやうに」。

2014-01-26 20:34:51