茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1187回「なぜ、その人なのかは神秘である」
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なそ(1)街をひとり歩いている時間は、いちばん幸福だ。先日、仕事の合間に、郊外の街を歩いていたら、ちょうど下校時刻で、二人の女子高生が、大声で話しながら歩いていた。どうやら、彼氏には、こういう人がいい、みたいなことを二人で話していて、それが聞こえるともなく聞こえてくる。
2014-03-07 07:36:43なそ(2)「そうだなあ、私よりも身長が10センチくらい高くて、顔がまあまあだったら、それでいいや」みたいなことを、一人の女の子が言っていて、私は、「ううむ」と考えてしまった。というのは、人は、実際に誰かを好きになる時は、そういうことでは決まっていないと思うから。
2014-03-07 07:37:49なそ(3)出会っていない人のことを記述するのは不可能だから、思春期において、私たちは、まだ存在しない彼氏/彼女のことを、「こんな人がいいな」みたいなことを言うことがある。しかし、その「いいな」という条件は、具体的なその人の存在によって、破られるものだと私は思う。
2014-03-07 07:39:00なそ(4)男の子たちも、「かわいい子」がいいとか、「きれいな子がいい」とか言う。しかし、誰かを好きになる時に、頭の中に条件がいくつかあって、そのチェックリストにいくつ印がついたから、じゃあ好きになりましょう、という順番はない。実際には、どかーんとまず好きになってしまうのだ。
2014-03-07 07:40:06なそ(5)このところ漱石を読み返していて、三四郎が美禰子に出会うところとか、あるいは『それから』で代助が三千代の風貌を記述するところとか、「かわいい」とか、「美しい」とか、そういううかつな修辞はもちろん使っていなくて、どちらかと言えば絵画的に容赦ない言葉が並んでいる。
2014-03-07 07:41:37なそ(6)漱石が絵画を愛好する人だったことは、自作の水彩画が残っていることでも、あるいは作品の中に絵画が何度も登場することでも知られる。『草枕』では、最後に一つの絵の構想ができるわけだし、『三四郎』は、美禰子をモデルにした『森の女』という絵画ができるまでの小説と見ることもできる。
2014-03-07 07:43:04なそ(7)ひとりの人間を、絵画として見たときには、そこに実に味わい深い微妙で繊細なニュアンスがあるわけで、とても「きれい」とか「かわいい」では片付けられない。私たちが好きになるのは、そのような具体的な人であり、その存在が、ずどーんと心の中に入ってきてしまうのだ。
2014-03-07 07:43:59なそ(8)だから、なぜその人なのか、と聞かれても、そうなってしまったのだ、という不条理しかない。こういう基準で「合格」したとか、自分の中の条件を満たした、というような合理的なプロセスではない。なぜ美禰子なのか、三千代なのかわからぬ不条理を描いている点に、漱石の凄みがある。
2014-03-07 07:45:13なそ(9)冒頭の二人の女子高生に戻る。「私よりも身長が10センチくらい高くて、顔がまあまあだったら」という条件は、友人に何かを伝えようとして言うのであろう。実際に出会う彼氏が、ずどーんと心の中に入ってきた時、その心の動きを言葉にするのは、漱石でさえ難しい。だからこそ小説がある。
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