@tokurice_philos 最後の更に言えば道徳を意識しない人は必然的に、、、という以降のくだりはちょっと意味が取れませんでした。
2014-04-01 21:19:19@tokurice_philos 総括すると、私の論点は「死の魅力と可能性」です。 徳ライスさんの論点は「死を望む人を殺人することの善し悪し」および「道徳の成立・実行力を得るための要件」だと理解しています。 もしそうだとするなら、その両者は関係ありそうではあるけど、別ですよね?
2014-04-01 21:22:14@tokurice_philos 宗教を持ち出すとむしろ問題がブレると思います。 世界に私しか居なくても、私という持続する存在を想定すれば(通常の道徳の原型になるような)道徳が発生する、という問題自体には、興味を持ちますし、直感的にはそう思います。
2014-04-01 21:31:38@tokurice_philos なぜかと言えば、道徳の基本的な実効力の源泉は、持続的な自分というものの考慮にあるからです。 未来の自分を考慮して私の行動の指針を決めることは、道徳に無くてはならないファクターですからね。
2014-04-01 21:33:23@tokurice_philos (論点がずれることを自覚した上で)横道に逸れてそちらの議論で盛り上がるのも好きなので混沌とするのも問題はないですね。 しかし、道徳者は云々のくだりは確かによく理解できないですね。 さらなる敷衍を求めたいところです。
2014-04-01 21:37:34@tokurice_philos 私の診断を申し上げると、「論理に従うときの論理を説明できない」という話と、道徳に従うものは従っている道徳規則を説明できない、という話と、言語を使用している時の言語使用規則は説明できない、ということは完全に並列にならない、と思います。
2014-04-01 21:52:11@tokurice_philos もっと素直な言い方をすると、その論理展開でいいのだろうか? という感じです。 実際のところ、別の問題を含むと思います、いま少し考えているので少々お待ちください。
2014-04-01 21:55:19@tokurice_philos (わき道だけサッと答えると)論理と言語に関しては、具体的な事例が無いのでなんともです。そもそも別口で論じたいようなもっと根本的で原理的な話です。
2014-04-01 22:02:25@tokurice_philos 私の方も、少し粗い言い方をさせて頂きますが、自分が今まさに従っている規則は説明できない、という話自体はあるし、あらゆることがらはそう言えると、思います。 しかし今問題になっている問題とそれとは簡単に接合できない。
2014-04-01 21:57:58@tokurice_philos その問題はもう少し高級な話で、おおよそ規則に従う行為一般に関して、そうでない可能性は想定不可能な、そうなっていざるをえないような話です。 ですが、今はそういうレベルで論じられている問題ではない、と私には感じられます。
2014-04-01 21:59:45@tokurice_philos 何故かというと、実際にそうでない可能性を道徳に関して考慮したからです。 道徳規則に関して自覚している人、していない人の区別は少なくとも提出したわけですから、問題の前提の時点でレベルが違うのは確かだと思います。
2014-04-01 22:01:16@tokurice_philos 私が理解した問題の論点は、「道徳の仕組みを理解するものは、道徳についての動機付けを失う」というもので、それは確かにあると思います。 そして、私ならば次のような素描を与えたい。
2014-04-01 22:05:00@tokurice_philos 道徳について自覚し、説明できる人は、道徳の実行によって得られるものと失うものを知っている。 そして、それが何のためにあるのかも知っている。 そして、それは往々にして自分にとって損であり、単なる社会からの要請に過ぎないことを知っている。
2014-04-01 22:08:39@tokurice_philos 少し迂遠になる感じですが、外縁から攻めます、まず、道徳に従っている人も、何が良いことであるか悪いことであるか、という規則を個別に取り出して説明することは可能なはずです。
2014-04-01 22:14:15@tokurice_philos 人のために自分を犠牲にすることは、良いことだ、盗みは悪いことだ、みたいに、自分が従う規則の具体的で個別な内容についてはむしろ自覚して説明できる可能性の方が高い、といえます。
2014-04-01 22:15:20