【所縁の地レポ】陸奥国(北三陸+おまけ平泉)に行って来た【500名様感謝】
- Shigetada_bot
- 7246
- 0
- 0
- 0
写真はただの飯テロで、道の駅たのはた、で焼いていた豆腐田楽ときらずダンチ(おからの焼き団子)。さて、なぜ畠山重忠のせいか、と言うと、まずこの村に伝わる鹿踊りのうち菅窪鹿踊は、うちの家紋を腰巻にする踊り手が最初に出てくる。 http://t.co/XNElgnK3BQ
2014-03-30 23:32:33まあ、いまの鹿踊りの形が整えられたのは江戸時代だと言う事だが、伝承では私がこの地に上陸した際に伝えたと言う話になっている。田野畑村と深谷市は交流もあって、重忠まつりの際にも田野畑より踊り手が来てくれたりする。
2014-03-30 23:36:06東北各地にある鹿踊については種類も起源も数多くあるので県のサイトを参照してもらう。田野畑村の菅窪鹿踊にも様々な伝承はある。ひとつとして、私の名が出るのは先に述べた義経北行伝承で、義経追討のため同村の大芦に上陸した私が伝えたと言うものである。後に江戸時代、大芦に住した大工の常五郎が菅窪にうつり現在の鹿踊を創始して、当地の雷電神社に奉納されるようになったと言う。
動画では現地の記録映像で30分ほどあるフルヴァージョン
また深谷市の重忠まつりで踊られた際のものがあるので紹介する。
http://www.youtube.com/watch?v=QqEYaPlsZKs
最初または二番手に出てくる踊り手がつけた袴に大きく畠山家紋とされる五三桐(もう一方には佐々木家紋)が描かれている。あと他地域の鹿踊と比べると鹿の頭が小さくリアルなのも特徴だ。
と言うことで畠山神社。ここは規模は小さいが、義経北行伝説の地として、ちゃんと看板も建っている。前回来た時より新しくなっていたw http://t.co/JeR4pDmiq8
2014-03-30 23:38:50伝承で言うと「平泉を脱出し北へ向った義経主従の追補を命ぜられた智将畠山重忠がこの地まで来たとき、愛馬が倒れたためこの地に埋葬し祠を建て、鐙を供えたのが始まりと伝えられている」ということであるが、実際は陸奥国の領地から鍛冶を行なう一族の者が移り住んだ事が始まりだろう。
2014-03-30 23:42:43鹿革は製鉄の際のふいごに使われるものであり、鹿踊りはその供養ともなることや、神社のご神体である鋤型や鍛冶師の信仰するスズメの絵馬などが納められた事など、武蔵国の鍛冶頭である私と結びつけられる逸話から実際と伝承の間にはそう言う事情があったと考えるのが自然かと思う。
2014-03-30 23:47:37畠山神社の境内には、深谷の畠山重忠公史跡公園(私の生地)からの椎木が移植されておる。まだ幼木だが。 http://t.co/PdJZjCXLUn
2014-03-30 23:50:21畠山神社自体は基本、鍵がかかっており宝物は資料館の方にあると聞いている。今回は時間もなく立ち寄れなかったが……しかし、震災直後は置き場所ないのかと思ったら、材木とトタン板は本殿下にいつも突っ込まれているようだw 祭りにでも使うのか? http://t.co/uRmfTNUZoJ
2014-03-30 23:52:47宣伝しておくと、田野畑村の羅賀荘という宿泊施設の大浴場は眺めが最高であるぞ。震災の時はここまで津波が来たそうだが、復活していた。 http://t.co/5FfbVVvghf
2014-03-30 23:55:00あと田野畑村は牛乳が名産? らしくて、たのはた牛乳はこの沿線あちこちで売っていて濃い目の味が旨い。関連商品としてたのはた牛乳アイスとアイスもなか、銘酒朝開きを使った大吟醸アイスなどもオススメしておくw http://t.co/KttcFIwfOP
2014-03-30 23:57:41田野畑駅がカンパネラ田野畑駅という名のためか、アイスのパッケージやあちこちに銀河鉄道モチーフがあるのも豆知識な。 http://t.co/ReXEpL0QCH
2014-03-30 23:58:57あとは田野畑村の地元漁師に、サッパ船乗せてもらった。あの辺の断崖絶壁はなかなかの見応えがある。また幕末には戊辰戦争で幕府軍艦の高雄がこの浜に乗り上げて村内に逃げたということだ。追ってきた新政府軍の船を指揮していたのが東郷平八郎だとも。 http://t.co/xk9hs0S0Lp
2014-03-31 00:05:19そして三陸復興国立公園にもなった、田野畑村の北山崎から先ほどのサッパ船が渡った海を見渡せる。ここ自体にも色々伝承があるが、まずは風景の素晴らしさで訪れる価値はあると思うぞ。 http://t.co/it3lky97GI
2014-03-31 00:09:16ということで田野畑村に関する話題はこの辺で。この夜は宮古に宿を取ったのだが、ここで40年以上バーを続けているパブ エルアミーゴのマスターが素晴らしかった。あとこの地域は鮭の養殖が盛んだが、荒巻鮭が本当に旨い。焼くだけであんな旨いのは他でなかなか出会わないな。
2014-03-31 00:13:47一応、宮古の無礼講という居酒屋では、お通しに茹で毛ガニ半身がごろりと出てきた事と、イカ焼きがめちゃくちゃ旨かった。酒も良かったと言うことを付け加えておく。あと安い。 http://t.co/L2DqtacXAu
2014-03-31 00:17:06ちなみにこれは自慢だが、田野畑村のフォロワーさんでなんと女子高生(現在)がいてくれてな/// そちらの兄上が菅窪鹿踊の踊り手でもあり、彼女自身も隣の岩泉町(龍泉洞で有名)の中野七頭舞の踊り手で、昨年の県高校総合文化祭で優秀賞を取り、今年七月の全国高総文祭出場を決めたそうだ。
若者にそうやって文化が伝承されて行く事は嬉しい話だ。
@Shigetada_bot お疲れ、重忠。無茶振りしてすまなかった。でも律儀に答えてくれて嬉しいよ。ありがとうな!景色も良さそうで、食べ物もおいしそうだし、一度訪れてみたい場所だな…
2014-03-31 00:20:35いえいえ、600名の指名権は別の方に渡りましたが、またぜひ無茶振りをしてくださいw 行くキッカケを作らないと、私の所縁の地は妙に全国に広がっているので。また、御所様の指名とあれば行くに決まっておりますね、でも富士の人穴は嫌ですよ。
ということで、以下は帰りに立ち寄ってきた平泉。一応はここも奥州征伐で訪れているので所縁の地なのだが、今回は陸前高田にも寄った帰りで時間がなく、ややマイナーな場所巡りをしてきたのを紹介する。
また、今回は行かなかったが『吾妻鏡』に見える私の所縁の地としては、平泉から北へ70km、岩手県紫波町の陣ヶ岡にて、私が由利八郎の尋問をした記事が残っている。
で、ついでと言うにはなんだが、平泉も行ってきた。金色堂の覆い堂は鎌倉時代にたてられて、増改築で室町時代に完成したもの、が今は移築されてある。現在は随分頑丈なところに金色堂は保存されておるな。 http://t.co/tSClEun9Mv
2014-03-31 00:22:09まあ、中尊寺やら毛越寺は有名処だからな。小ネタでいつも胤義が気にしている中尊寺内の三浦の家紋がある土産屋だがw ここは目のお守りを売っている願成就院というお堂だ。住職が三浦さんだが、普段はいないらしく三浦一族との関わりは聞けなかった。 http://t.co/ocYMuouPjC
2014-03-31 00:30:37一通りはみて回ったが、比較的マイナー処といえば、金鶏山に登ってきた。麓には義経妻子の墓があるので、ここまでは来る人もいるようだ。先日の大雪のためか池の端の木が根元から倒れていたが藤原まつりまでには修復されるかな…… http://t.co/Ae6sVYGuG9
2014-03-31 00:33:08ちなみに金鶏山は麓から250mと書いてあるが、あまり登る人もいないからか落ち葉などがかなりあり、何気に坂道も続くので街歩きの足元での登山はお勧めしない。 http://t.co/hyGYH7hQdl
2014-03-31 00:35:00金鶏山山頂から、わかりにくいだろうが毛越寺の池が見える。あと、ここは彼岸の頃に無量光院から見ると日の沈む山になるよう築かれていた。西方浄土ということだな。「秀衡があとは田野になりて、金鶏山のみ形を残す」と。 http://t.co/RwJlbyB527
2014-03-31 00:44:57