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2.01 事態は、対象(事柄、事物)が結合したものである。 2.011 事態の構成要素であることができるのは、事物にとって本質的なことである。 2.012 論理では、なにひとつ偶然なものはない。事物が事態のなかに登場する可能性があるなら、事物のなかに事態の可能性がすでに先取り
2014-06-15 16:23:00されているにちがいない。 2,0121 もしかりに、ひとりで勝手に存在できるような事物に、後から状況が当てはまるようなことがあるとすれば、それはいわば偶然の現象ということになるだろう。 事物が事態のなかに登場する可能性があるなら、その可能性はすでに事物のなかにあるにちがいない。
2014-06-15 16:24:27(論理的なものは、たんに可能であるだけではない。論理は、あらゆる可能性を扱う。そしてすべての可能性は、論理にとっては事実なのだ) 空間的な対象を空間の外側で考えることなどできない。時間的な対象を時間の外側で考えることなどできない。同様に私たちは、どんな対象も、ほかの対象と
2014-06-15 16:26:432.0122 事物が自立しているのは、可能なすべての状況で登場することができるからだ。しかしこの自立の形式は、事態とのつながりの形式であり、非自立の形式なのだ。(言葉が、2種類の意味で--つまり「単独で」と「文中で」--登場することは、不可能である)
2014-06-15 16:30:122.15 像のエレメントたちが特定のやり方で関係しあっているということは、事柄たちがその特定のやり方で関係しあっているということを、あらわしている。 像のエレメントたちのこのつながりを像の構造と呼ぶことにしよう。そしてその構造の可能性を、像の写像形式と呼ぶことにしよう。
2014-06-15 19:42:472.151 写像形式の可能性とは、事物たちが像のエレメントたちのように関係しあっているという可能性のことである。 2.1511 像は、そんなふうにして現実と結びついている。像は、現実にまで達している。 2.1512 像は、物差しのように現実にあてがわれている。
2014-06-15 19:45:002.1513 このように考えるなら、つまり、像を像にする写像関係までもが、像に属することになる。 2.1514 写像関係が生まれるのは、像のエレメントたちを事柄たちに割り当てることによってである。
2014-06-15 22:30:303.04 アプリオリに正しい考えというものが、かりにあるとすれば、そう考えることが可能であるというだけで、その考えが真であると保証されるような考えだろう。
2014-06-20 19:26:213.1 命題では考えが感覚的に知覚できるように表現されている。 3.11 私たちは、命題という感覚的に知覚できる記号(音声記号とか文字記号など)を、可能な状況を射影したものとして利用する。 射影という方法は、命題=意味を考えることである。
2014-06-20 19:29:353.142 事実だけが意味を表現することができる。名前を集めても、意味を表現することはできない。 3.143 命題記号も事実である。手書き文字や活字という普通の表現形式が、そのとにベールをかぶせている。 というのも、たとえば印刷された命題では、命題記号が単語とあまり
2014-06-21 12:22:50