イエス・キリストというロゴスあるいは出来事

ここのところ「ロジック」というものについてぼんやり考えていて、その未分化のままだった考えが、山本芳久さんのツイートに刺激された形になったのだけれど、それだけでなく、頂いたリプライから、それが「出来事」であったことを理解したという、私的には非常にインパクトの大きかったツイートのやり取り。その後若松さんのしていたツイートがシンクロしていて、まるで一続きの「ロジック=出来事」のようだったので一緒にまとめました。
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山本芳久 @201yos1

キリストが「ロゴス」「神の御言葉」と言われるのは、その活動と言葉とによって、神の在り方を余すところなく明らかにしたからだ。「短くされた御言葉(Verbum abbreviatum)」とも言われる。いわば神を「要約」した存在であるイエスについて語る福音書は「要約の要約」とも言える

2014-07-26 11:34:35
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 私は、キリストが神のことばと言われる理由は、ヨハネ福音書冒頭の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」のところと、同17−5の「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」のところと、(続きます)

2014-07-26 21:26:07
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 箴言8−22から31の「神の知恵は語る」のくだり、つまり、天地創造より前に神によって造られた「神の知恵」、祝別され、神の御前で楽を奏して神を楽しませる「神の知恵」からきているのだと思っていました。(続きます)

2014-07-26 21:32:08
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 でも確かに、イエスは癒しの業だけでなく、その言葉によって神の存在を説いていたわけですから、その意味でもキリストは「ことば」だったと言えると思います。 最近私は「ロジック」ということについて考えていて、ロジックの語源はロゴスにあるんだと思いますが、(続きます)

2014-07-26 21:36:31
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 考えてみると、イエスの言葉はとてもロジカルですよね。感情に訴えるとか、煽動的とか、ドグマ的とかではまったくなく、とても理性的な言葉です。 私は「理性的な言葉」というのは地上的なもので、人間同士が理解し合えるように存在しているのだと思っていたのですが、(続きます)

2014-07-26 21:42:07
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 むしろそのように「人と人とをつなぐ」ということ自体が神の業なのであり、その神の業であるところの理性的言語は、おそらく宇宙的「摂理」の、この地上における写し絵のようなものなのだろうと思いました。(終わりです。すみません、長くなりました。)

2014-07-26 21:47:24
山本芳久 @201yos1

@aoyamaakiko3 詳しいコメント有難うございます。色々と参考になりました。聖書で「言葉」について考える時に大切なことの一つは、ヘブライ語の「ダーバール」が「言葉」と「出来事」の両方を意味することからも分かるように、言葉が動的な創造力、現実変革力を有しているという観点です

2014-07-26 21:55:36
akiko aoyama @aoyamaakiko3

@201yos1 出来事! 私、最近、「イエス・キリストは〈出来事〉だったんだ」って考えてたんです! ヘブライ語では、出来事と言葉が同じひとつの言葉なんですね。ありがとうございました!

2014-07-26 22:08:17
若松 英輔 @yomutokaku

「イエス伝」の最終回を書き終えた。福音書を貫く根源感情は悲しみである。「悲しみ」とは、確実なる喜びの到来を伝える魂の出来事をいう。何度かイエスの姿を見、彼のまなざしにふれたように思う。それがたとえ錯覚であったとしても私にとっては、かけがえのない出来事であることは何ら変わらない。

2014-07-27 00:49:33
若松 英輔 @yomutokaku

他者の話を聞き、語られた事を脳裏に再現できたとしても、確かに感じた魂の鼓動を忘れたなら、何が残るだろう。衝撃を覚えた出会いは何が語られたかを忘れても、出会った事自体は覚えている。私達の人生を深く横切るのはいつも、そうした出来事ではないのか。再現することのできない経験ではないのか。

2014-07-27 00:58:33