クトゥルフ小話:猛暑ゴス

暑かった。田舎とは、それまた一種の異郷であり神話的空間である。
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ロマネスコ @romanescox

長い、長い、長い間、走り続けた。いつしか「テケリ・リ」という声は聞こえなくなっていた。それでも心配でしばらく走り続け、念には念をいれたところでやっと、僕は駆け足を緩めた。緊張がなくなったせいか、急に息が切れ初めその場で吐くほどに咳き込んだ。

2014-08-16 17:59:48
ロマネスコ @romanescox

逃げ切った。僕は逃げ切ったのだ。何やら分からない、この世の物ならざる狂気の現象から逃げおおせた。庄篭さんも無事だし、これ以上ない。これ以上ない結果である。

2014-08-16 18:02:22
ロマネスコ @romanescox

後ろを振り向きたくなど無かったが、今はとにかく庄篭さんの顔が見たかった。自分が勝ち得た「安堵」の象徴たる彼女の顔を、その笑みを。まだ正常に働かない心肺を整えながら、僕は彼女の手を握る力を強め、そちらを見た。

2014-08-16 18:06:52
ロマネスコ @romanescox

だが、そこには、彼女の顔などなかった。何も無い。無である。

2014-08-16 18:08:42
ロマネスコ @romanescox

猛暑。田んぼ。熱で揺らぐ視界。猛暑。彼女の手。走ってきた畦道。猛暑。はるか彼方に鎮座する甚大なる塊。塊は二つ。両方が漆黒。片方は遠くからでも錫杖を握っていると分かる。猛暑。

2014-08-16 18:14:31
ロマネスコ @romanescox

もう片方の比較的小さい塊。猛暑。田んぼ。彼女の手。伸びる腕。猛暑。伸びている。腕。腕。掴んでいたハズの手は遥か彼方の塊へと続いている。あぁ、なんてことだ。彼女の白い掌は、小さい怪物と繋がっている!猛暑!小さな怪物の姿は大きな方より華美!先程見た怪しい建築様式を思わせる。

2014-08-16 18:20:13
ロマネスコ @romanescox

猛暑。田んぼ。畦道。彼女の手。怪物の手。猛暑。猛暑。華美なる怪物。猛暑。華美、ゴシック!ゴシック!ゴシック!ゴスッ!猛暑!ゴス!

2014-08-16 18:21:44
ロマネスコ @romanescox

ふと、目が覚めた。最初に目に入ったのは、僕の顔を覗き込む、天使のような顔だった。それから数秒して、僕は庄篭さんの膝に頭を乗せるようにして寝ていたことに気付いた。

2014-08-16 18:25:01
ロマネスコ @romanescox

「帰り道の途中に熱中症で倒れたんだよ?大丈夫?」 柔和な声で彼女は言った。慌てて身を起こしながら、記憶が混濁していることを恐る恐る話すと、彼女は可笑しそうに笑った。「怖い夢を見たんだね。」

2014-08-16 18:29:05
ロマネスコ @romanescox

夢…そうだったのだろうか?確かに、鞄の中のノートには錫杖の使い方が細かく書かれていた。指を差し込む為と思われた持ち手の複数の穴は、両手で持つ際に指を引っかける為のものだと書かれている。祖先の奇妙な像は熱によって溶けてしまったせいで形が崩れたのだという。

2014-08-16 18:33:48
ロマネスコ @romanescox

デジカメには老人と仲良さそうに写っている自分の姿や、名残惜しそうに別れの手を振る庄篭さんの姿が記録されていた。どうにも覚えてないが、これも熱中症で倒れたショックか何かによるものだろう。

2014-08-16 18:37:28
ロマネスコ @romanescox

「楽しかったね。」 少女の笑みに、僕は曖昧な言葉しか返せなかった。寝かされていたのはバス停だったらしく、しばらくしてノロノロとバスが走ってくる。既に日は傾いてきており、今から帰路につけば深夜になる前には帰宅できるだろうと思われた。

2014-08-16 18:46:27
ロマネスコ @romanescox

バスに乗り混み、やたらに空いている座席に腰かけながら、自分が今日歩いてきた田んぼ道の方へと目をやった。悪夢のような猛暑に揺らぐ大気は既に静まり、穏やかに風に揺れる田園がただそこにあった。夕日に照らされる稲穂の絶景に感動すらしてしまう。

2014-08-16 18:50:43
ロマネスコ @romanescox

僕が見てしまったあの狂気は、絶対に幻覚だ。早く忘れるべきだ。それが正しいし、僕はそうするだろう。もうすぐにでも、今日のインタビュー内容をどうまとめるか考え始めた方が良いのである。

2014-08-16 18:55:33
ロマネスコ @romanescox

だが、どうしても拭えない。僕の手には畦道を駆け抜ける間ずっと握っていた彼女の掌の柔らかい感触が、ゆっくりとバスが走り出した今もじっとりとこびりついて残り続けているのであった……。【おしまい】

2014-08-16 18:58:43