- JunNakagawaWork
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講演者は、ほとんどいつも、聴衆を説得するよりも寧ろ喜ばそうと努める──こう見えたいと思うとおりの姿を示すことによって見えたいと思ったとおりの(聴衆が期待するとおりの)形が生まれる。部外者から観れば、それは作為に見え滑稽かもしれない。はっきり言ってしまえば、お芝居の舞台である。
2014-09-20 00:10:57対象を充分観察せずに取り扱おうとする際には、いつでもそこに憶測(我見)があるはずだろう。「事実」をさておいておこなおうとすることが、そもそも我執(がしゅう)そのものだと云えよう。これは世上の議論(論争)を観察してみればわかることだ──特に、党派の論がそうである。
2014-09-20 00:11:42私は講演するたびに「無礼だ」と非難されてきたが、おそらく無礼というものは予想できないもののなかにしかない──非難(あるいは、怒り)は種々様々な様式で礼儀にかならず結びついている。だが、聴衆の期待に応える事は、私の使命(自説の公開)ではない。
2014-09-20 00:12:35ひとつのモノは直積集合(条件の多項式、数学上の「関係」)で形成され、いくつかのモノの整列は関数で形成できる。そして、モノのあいだの関係(日常語としての「関係」)が「関与(ingress)」として表現されなければならない。これらの技術がモデル作成技術のすべてである。
2014-09-20 00:13:20モデルとは、世界(universe of discourse)を裏返しにしてみせ、所与の対象がことごとく表現力(構成力)を以て整列していることなのだ──これは、事業分析のモデルが事業過程について書かれたのではなく、管理過程の構成として書かれたのである事を示している。
2014-09-20 00:14:03ありのままの現実というものは、なにか他の形式(符牒)に従わぬ限り、ほとんど何の意味をも持たない。そのために、符牒が現実の代置となり、抽象的な合図の交換となる。符牒は、規則に従って演算する事によって、表現に極めて好都合なのである。こうして、「意味」は構成されたものとして生まれる。
2014-09-26 15:52:27「論理」のもつ効果の一つは、その規則によって我々に思考を現存させ、はっきりと意識させる点にある。論理規則は、思考の具体化した部分に対する一種の構成法だということができる。思考の速度を我々はコントロールできない、なにを考えているかは、実際、書いてみなければわからないのである。
2014-09-26 15:53:11他人の同意を想像しなければ「真」を証明してみてもはじまらない様な、党派(多数派)を工作する骨折りは誰も scientific とは思いやしまい。しかし、党派(後見)を持っているほうが勝つに決まっている。
2014-09-26 15:57:49「君子は人をたのしませても、おのれを売らぬ。小人はおのれを売っても、なおかつ、人をたのしませることができない」(孔子)──私が聴衆の前に立って語った後に感じる虚しさは、これが理由かもしれない。
2014-09-28 20:23:03もし、これが技術だったら、なにか学理のようなものを語ってください。しかし、もし、これが学理だったら、なにか技術のようなものを見せてください。
2014-09-28 20:25:02