- hilo_taoka
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ヴァイオリンの音が止んで、私は顔を上げた。視線が合うと、死神は大げさに肩を竦めて見せる。左手には弦の切れたヴァイオリン。さすがに少しカチンときた。「一体いつ終わるんだ、お前の仕事は」「さあ…… 神様にでも訊いてみるかい」 1
2014-10-16 00:50:46読んでいた本を投げつけてやったが、死神は避けもせずにそれをすり抜けた。今まで何度かこういうやり取りを重ねて、私はこいつが正真正銘の本物だと理解した。少なくとも真っ当な人間じゃない。外見がスーツを着た紳士であっても。 2
2014-10-16 00:54:02「大体なんでE線が切れてるんだ。さっきから弾いてる曲じゃ、一度も使わないだろ」「まあ、なんだ…… 特別製なんだ、死神のヴァイオリンは」ふざけてる。私のところに来てから二週間、この男はずっとこんな調子だ。 3
2014-10-16 00:58:43その魂を連れていくにあたって、最後に一曲聴かせよう―― そんなことを言ってヴァイオリンを取り出したものの、調律ができていないとか、松脂がないとか、なんだかんだと理由をつけて一週間。演奏を始めてからも、ことあるごとに中断して一週間。「ようするに、仕事をする気がないんだろ?」 4
2014-10-16 01:03:47「とんでもない…… むしろ、これほど仕事熱心な死神もいないさ」「だったらヴァイオリンなんて……」食ってかかろうとした私を片手で制して、死神は微笑んだ。「なにごとにも手順があるのさ。それとも、急ぐ理由でもあるのかい?」 5
2014-10-16 01:30:31私は言葉に詰まった。彼の言うとおり、死に急ぐ理由などない。理屈で考えれば、どうして自分を殺そうとする者を急かす必要がある? 否。私はただ―― 「ずっとこのままなのが耐えられないだけだ。だらだらと、同じことを永遠に続けるつもりか?」 6
2014-10-16 01:36:47「別に永遠ってわけじゃない。少しずつ手順は進んでるよ。例えば…… E線の替えを買ってきてもらう、とか」「それは、私が?」「僕は商品に触れないからね」死神は椅子をすり抜けて床に座り、大げさに肩を竦めて見せた。 7
2014-10-16 01:43:47この町に楽器屋は一つしかない。大通りを外れてしばらく歩き、細い坂道を上った先。子どもの頃には何度か足を運んだものの、最近ではすっかりご無沙汰していた。そう考えて、私は自分の左手に目を落とす。 8
2014-10-16 01:48:55指先のたこがすっかり柔らかくなっている。最後に弦を押さえたのはいつだったか。私のヴァイオリンはケースごと、鍵のかかったタンスの中に押し込められて、きっともう日の目は見ないだろう。 9
2014-10-16 01:52:59だからどうということもない。私には結局向いていなかった、それだけのことだ。ヴァイオリンに限ったことじゃないし、私だけに限った事でもないだろう。……いつの間にか眉間に寄っていたしわを伸ばして、私は店内に入った。 10
2014-10-16 01:58:00店内には誰もいなかった。プラスチックケースが雑然と並べられたCDコーナー。読めない字が表紙の楽譜。埃をかぶった楽器用品。どこも長いこと放置されたままのようで、しんと静まり返っていた。 11
2014-10-16 02:12:15休業中? それならドアに鍵がかかっているだろう。首をかしげながら、私は店の奥に進む。進みながら疑問はいや増す。どこまでも棚が並んでいる。どう考えても広すぎる。置いてあるものが何なのか分からない。思考の焦点がずれているような感覚。居心地の悪さを覚えながら、私は店の奥に進む。 12
2014-10-16 02:18:51進むほどに店内は乱雑さを増していく。楽譜は棚から溢れ、小山になって行く手を遮る。私はそれをほとんどかき分けるようにして進む。進む。進む。いくつもの五線譜の中を。そしてついに、最奥に辿り着く。 13
2014-10-16 02:23:54「そういうことか。……結局、最初から」そこには一挺のヴァイオリン。ニスの剥げ方に見覚えがある。タンスの奥に仕舞ったままの、私の楽器。私はため息をついてそれを手に取った。 14
2014-10-16 02:28:30左手で楽器を支え、右手に弓を軽く握る。楽器の記憶が流れ込んでくるように、扱い方を思い出す。弦に弓を乗せ、軽く音を出してみる。調律は完璧。たどたどしい指使いで、私は演奏を始めた。 15
2014-10-16 02:32:14昔は通しで弾けた曲が思い出せない。指先に弦が食い込んで痛みと熱を持ち始める。何度も失敗して、自分にため息をつく。とても聴けたものではないほどに、腕は鈍っていた。それでも、私は弾き続けた。音を鳴らすのが純粋に楽しかった。 16
2014-10-16 02:36:42指が動かなくなるまで遊んで弓を置くと、拍手の音が響いた。「どうだった、久々のヴァイオリンは?」声の主はあの死神だ。底意地の悪い男。「楽しかったよ。この何年かで一番楽しかった」 17
2014-10-16 02:41:58「それで、満足できたかい?」「いや、全然。まだ満足な演奏ができてないし、弾きたい曲はいくらでもある。もう少し休んだら続きを弾くさ」私の言葉に、死神は大げさに肩を竦めた。「そうはいかない。今から僕が演奏するからね」 18
2014-10-16 02:44:58彼はE線の切れたヴァイオリンを構え、微笑んだ。「そしてこれは約束通り、君が最後に聴く曲だ」あれだけ焦らして、引き延ばして、こんなものを与えておいて。今になってそんなことを言い始めるなんて。「一体どうしてこんなことを」 19
2014-10-16 02:51:10「生と死は背中合わせだ。生きていないものは死ぬこともできない。さっきまでの君はそういうものだった。だから僕が仕事をするには、もう一度ちゃんと生きてもらう必要があったのさ」つまり、奪うためにわざわざ取り戻させたわけだ、魂を。こんな手間をかけて。 20
2014-10-16 02:56:12なるほど、これほど仕事熱心な死神もいない。「ところで、E線は切れたまま?」「ああ……一曲しか知らないんだ。実はね」そして、死神のヴァイオリンが響き始めた。 21
2014-10-16 02:58:20