- pijinneji2
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むかし渡辺守章さんと浅田彰さんが対談で舞踏を嫌いな理由として「結局わたしは努力してる人が好きなんです」という言い方をしていて、当時舞踏家だったぼく的にはけっこう胸に突き刺さる言葉だったんだけど(お二人とも尊敬してるからね
2014-11-16 20:57:07@nihaku ぴじん氏の身体性はちょっと類のないものだったと思いますよ。あんなに細いのにすごい存在感だった。肩や背中に空間が広がっていた。じっとしている時が一番良かったと思っています。痙攣的な動きは私には不必要に思えました。あの声はもっと内臓の奥から出てくるべきだと。
2014-11-16 21:00:34でもそれって一理あって、古典的なバレエなんかやってる人たちの努力やひたむきさってすげーわけ。とはいってもなんでそこでそんなにひたむきになれるわけ? という視点をもってコンテンポラリーダンスなり舞踏なりをやってる自分からすると、努力の天秤だけで測られたくねーよという憤りもあったり
2014-11-16 21:00:41@ushiyamaumao1 ねじ氏の表現はすべて表層的というかクリティカルですよね(それがとても素晴らしいと思っています!!) ぼく的には今回の作品でもそのおかげで客席との共有点がクリアになっていたと感じています☆
2014-11-16 21:05:26という中で、 わざと意地悪な言い方をするとコンテンポラリーダンスって“素人のとんち”が競われているフィールドだったと思っています(まじで意地悪すぎて殴られそうだなw
2014-11-16 21:08:34でも今回はまったく違いました!! 三者三様の出自(国籍もダンス言語的にも)+古典的な身体言語をぶつけ合い打ち消しあう創作のなかで、この3人の(身体的)語彙力といったら、まさか素人とはぜったいに言えない! まさかここに努力がないなんて誰が言えるだろうか!!
2014-11-16 21:12:04必ず習得すべき体系的なダンス言語の存在を疑いながらここまで来た3人のダンサーの努力や力量があってこその作品が登場したという意味でとても新しい地平を見せてもらいました! これはほんとにすごいこと!!
2014-11-16 21:18:19イム・ジエ、捩子ぴじん、セルジウ・マティス『1分の中の10年』終演後に改めて「そうかこれ第一、二部を経た”最終形”だった」と気づく。時間と思考と志向と嗜好の経過が”あった”ことが”わかる”ことを無意識に体感していた。まずそこが妙味と思うfestival-tokyo.jp/14/program/10-…
2014-11-17 10:55:34イム・ジエ、捩子ぴじん、セルジウ・マティス『1分の中の10年』ジエとマティスの姿(外見)は「正しい造作だなあ」と思う。日常生活における美男・美女ということとは異なるけどそれぞれの表現世界における記号的な正統さ…みたいなことを感じる。
2014-11-17 10:58:14イム・ジエ、捩子ぴじん、セルジウ・マティス『1分の中の10年』捩子ぴじんさんの姿(外見)は「よくできた造作だなあ」と思う。1個の細胞のような無名性と何かの典型を予感させながら、決して他の誰でもない。他の種にぽーっと憧れるような気持ち。 (あれは、勝新の声?何の映画だったっけなー)
2014-11-17 11:02:44イム・ジエ、捩子ぴじん、セルジウ・マティス『1分の中の10年』ジエが捩子ぴじんに寄っていくのは、生物がより優れた生物に引き寄せられていくよう。でも、近づいて交配するのではなく「こんなんどう?」とすかした求愛で未来を作ろうとする、ような。様々な場面で、正しく期待を裏切る舞台だった。
2014-11-17 11:05:57『1分の中の10年』(イム・ジエ:構成・振付、セルジウ・マティス、捩子ぴじん)。東京芸術劇場で鑑賞。韓国の伝統舞踊、日本の「舞踏」、西洋のバレエ。異なるダンス文化に根ざす断片的な動きが次々と提示され、純白空間に動きの点描画が描かれる。動作の量は圧倒的。緊迫感が途切れないのが驚異。
2014-11-18 14:31:54馬場秀和ブログ更新。 『1分の中の10年』(イム・ジエ:構成・振付、セルジウ・マティス、捩子ぴじん)。 babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-11-18
2014-11-19 15:45:39