- chutotanka
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この翻訳を喜びたい。っていうか喜んでいる。 海外の文学作品といっても目に入ってくるものは限られていて、中東のものはなかなか読む機会がないので。
2014-11-25 17:36:28この「このとき」という短編は、最後の一文に面白さがかかっている。最後の一文のためにそれまでの文章があるようなつくりになっている。
2014-11-25 17:39:19齋藤芳生さんとサムーイールさんとの対談では、「自然と自己の統一」という言葉が印象的だった。 サムーイールさんが齋藤さんの短歌を読んで「この詩は自然と自己の統一がされているのです。これは素晴らしいことです。」と言っている。
2014-11-25 17:46:54という歌。ほかの歌にもやはり同じようなことを言っていて、そのあたりを読んで感じているようだ。 国を越えて短歌が読まれ味わわれるのは刺激的だ。
2014-11-25 17:50:07→中東色の濃い連作が多いなかで、これだけが薄いので、そこを取り上げるのはちょっとあれかなと思ったりもしつつ。 「かたいふくらみ」のひらがな表記は逆にやわらかく感じる。電球は割れるものなので注意深く外すわけだが、官能的だ。「きれかけ」はきれぎれに出される声のようだ。
2014-11-25 18:04:51→屋上と地図の取り合わせが面白い。屋上は高い場所なので、見下ろせば(その高さにもよるが)町を一望できる。本物の町を上から見れるわけだが、そこに地図が出てくる。地図もやはり町を上から見たようなものが描かれているが、加工され整理されている。 「横から見せてきた」が見たくなさそう。
2014-11-25 18:12:47本物の町へ加工された町が割り込んでくる。 雨粒はなんだろう。最初の、ということはこれから降る雨を予感させる一粒だ。地図への滲みではなく、音として聴覚でとらえている。地図をちゃんと見ようとしていれば視覚でとらえられるだろう。
2014-11-25 18:16:51自然物と加工物ということにこだわるのであれば、雨はなにかを味気なくしたものだとも読める。例えば、涙のニセモノとしてこの雨は打ちつけたのだ、とか。
2014-11-25 18:19:35《更新》 「中東短歌3」を読む ~自然と自己の統一、ほか : ▼存在しない何かへの憧れ blog.livedoor.jp/mk7911/archive… 書き足したところあり。
2014-11-25 19:52:43『中東短歌3』を読了。サムーイールさんと齋藤さんの対談と千種さんの連作が特によかった。短歌、評論、エッセイ、対談、翻訳小説が詰まってるのって贅沢。 読みながら、いつか作るドイツと短歌のプリント? 本? のタイトルが決まった。
2014-11-25 16:57:57『中東短歌』の対談と『サンカク』の谷川さんのインタビューを読んで、気づいてしまった。こういう形式の会話を文字に起こしたものに萌えること。 小説の会話文とはまた違う……なぜなのか……
2014-11-25 17:20:32「〜なの」、「そうそう、そうなんですよね」、「たいへんよく分かります」とかさ……相槌。うまく伝わってるかな? という僅かな不安と高揚が伝わってくる形式。いいじゃんすごく。対談で一方が明らかに喋りすぎなのとかも萌えちゃう
2014-11-25 17:23:58夜からはビールも出すってさ 夕やみへ古文書みたいなメニューを渡す 昔みたいに、でもぎこちない肩だった。冬の楓のようなあなたの 心中は別に冗談ではないのだが、モネ、睡蓮へ話は伸びる 千種創一「終りの塩」、『中東短歌3』
2014-11-25 19:48:57美しく歳をとろうよ。たまになら水こぼしても怒らないから 塩くらい残ればいいと煮えたぎる涙をあなたの二の腕に拭く この雨の奥にも海はあるだろう きっとあなたは寝坊などして 千種創一「終りの塩」、『中東短歌3』
2014-11-25 19:50:02〈様々な国籍の子どもたちがいた。〉 パレスティーン、と少年答えその眼伏せたり葡萄のように濡れいき (齋藤芳生「柘榴花咲く」『中東短歌』第3号、〈〉内は詞書)
2014-11-25 20:37:27「けれども、このとき、彼女はわたしの腕のなかで、あきらめたのだ。水しぶきと、束になった陽光でいっぱいの顔を、わたしにゆだねていた。その顔は、わたしがただの一度も見たことがない、不思議な純白の輝きをはなっているようだった」 (サムーイール作、町川匙訳「このとき」『中東短歌』第3号)
2014-11-25 20:40:29