ムハンマド・アサドの波乱の生涯-20世紀の歴史を生きた人-

1900年に生まれて92歳で没するまで、ヨーロッパ、中東、印パの激動に深く係わった人生。 日本人で知る人は少ないと思いますが、興味を持ったら嵌る人です。
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Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】1924年、中東訪問。エジプトにてアズハル大学のシェイク・ムスタファ・アルマルギと交友。ベルリンに帰還し、地政学会での講演。26歳にて成功した人生を歩む。だが、人々が不幸に思え、クルアーンに没頭。

2015-02-26 23:43:10

注:

ムスタファ・アルマルギ(Muhammad Mustafa al-Maraghi 1881~1945年)
エジプトの法学者。当時はエジプト・シャーリア裁判所長官でもあったと思われます。後にアズハル総長

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】フランクフルターを辞職。3紙と契約。中東に通信員として帰ることを望む。ベルリンのムスリム共同体のインド人の友人の前で改宗し、ムハンマド・アサドと改名する。数週間後、エルザとその連れ子も改宗します。

2015-02-26 23:43:27
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】1927年。ムハンマド(レオポルト)、妻エルザ、息子アフメド、サウジアラビアへ行き、ハッジを目指し、ジッダでイフラームに着換える。

2015-02-27 08:48:24

注:

イフラーム(ihram)
メッカ巡礼中に着用する衣装。縫い目の無い男性用の二枚の白布のことです。

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】しかし、メッカ到着の9日後、エルザがなんと食中毒で急死します。ムハンマドは憂鬱になる。息子を連れてアラビア半島を旅行。息子をドイツに送り返し、エルザの家族に預けます。

2015-02-27 08:48:45
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】メッカでイスラムの学習。欧米の新聞に記事を書く。アラビア語に翻訳され、アラブ諸国で名を知られるようになる。

2015-02-27 08:49:01

サウド王家の顧問に

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】改宗したムハンマド・アサド(レオポルト・ヴァイス)はファイサル王子、イブン・サウドに会う。西洋、帝国主義、アラブ世界の状況について述べる。次第に顧問集団の一員となっていき、アラビア半島の旅行の許可を得ます。

2015-02-27 08:49:38

注:

ファイサル王子(第3代サウジアラビア国王 1906~1975年)

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】アラブ文化に傾倒し、1930年、族長の娘モニラを娶ります。2年後、タラル誕生。メディナで家庭をもうけます。ムスリム指導者と討論したりします。

2015-02-27 08:49:54

注:

モニラ( Munira Hussein Al Shammari 1978年没)
1952に離婚しサウジアラビアに帰郷。
因みに、2015年1月に亡くなったサウジアラビアのアブドラ前国王の生母もシャンマル族出身です。

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】ムハンマド・アサド(イスラムに改宗したユダヤ人レオポルト・ヴァイス)の人生。暴力には激しく反対した。息子タラルは子供時代、夜、人のあとをつけておどして喜んだら、父にぶたれた。人を脅かしてはいけないと。

2015-02-28 10:26:38

インドへ そしてパキスタン建国に係わる

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】しかし、なんということでしょう。再び漂泊癖が現れ、妻と息子を連れてサウジアラビアを秘密裏に去り、インドへ向かいます。(なんだかどうも、ロマンが現実にまさってしまうタイプに感じられますけど。)

2015-02-27 08:50:20
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】インドでは、ムハンマド・アサドはムハンマド・イクバルと交流、インド亜大陸でのムスリム政策形成の議論に参加。ムスリム国家建設に尽力し、今度はウルドゥー語の学習をします。そして戦時中には収容所へ。戦後、収容所を出ると、イスラム運動の指導者の一人となる。

2015-02-27 15:59:34

注:

ムハンマド・イクバル(Muhammad Iqbal 1877~1938年)
独立以前のインドで活躍したムスリムの詩人、哲学者、政治家。
インドに住むムスリムがインドとは別の独立国家建設することを提案。

Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】ムハンマド・アサド(レオポルト・ヴァイス)はオーストリア国籍をもっていたので、戦時中、英国のインド政府によって収容所へ入れられた。他方、彼の親戚はユダヤ人ゆえナチスに殺害された。インドでは国籍ゆえに収容、母国では宗教ゆえに虐殺という不条理。

2015-02-28 10:27:00
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】アサド一家は収容所で唯一のムスリムだった。彼は、ヨーロッパにいる自分のユダヤ人の父と姉の救出に尽力した。だが努力むなしく、彼らはナチスに殺害された。この残酷な知らせが届いた日が父が泣いた唯一の時であったと息子タラルは言う。

2015-02-28 10:27:47
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】ムハンマドはユダヤ人であった過去を隠さなかった。それはムスリムの友人にとっては問題がなかったが、ユダヤ人は困惑した。

2015-02-28 10:28:09
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】インドの収容所で、ある親切なユダヤ人が、ムハンマド(レイポルト)がもとユダヤ人と知って驚愕。なぜかと聞かれて父は答える。これでよかった。昔は何も信じていなかった。今は少なくとも神を信じている。

2015-02-28 10:28:30
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】印パ分離時にはインド・パンジャブ州に生活。ヒンドゥー教徒襲撃を恐れつつパキスタンへ移動。ユダヤ国家の建設に反対した人がムスリム国家建設を支持した理由は何か? レオポルトの構想では人種や国籍へのこだわりがなかった。しかし結局、パキスタンに失望します。

2015-02-27 15:59:55
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】パキスタンではイスラム再建大臣、外務省中東局長、国連大使など歴任。妻と息子はロンドン滞在。ニューヨークではポーランド系のポーラ(改宗してハミルダ)と結婚、国連大使を辞めさせられる。パキスタンでは彼がアメリカ人女性と結婚したのを喜ばなかった。

2015-02-27 16:00:14
Keishi N 中村圭志 @7AChips

【ムハンマド・アサド】ムハンマド・アサド(レオポルト・ヴァイス)はパキスタンの政治活動から退き、『メッカへの道』を執筆。ドイツ、アラビア、トルコ、オランダ語訳が出る。だが、ヘブル語の翻訳はなく、サウジアラビアでは発禁である(実際は入手可能で検閲もないのだとか)。

2015-02-28 10:25:17
メッカへの道 (文化史選書)

ムハンマド・アサド