- syrdarya1975
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出典を明示しないとまずい気がしてきた。吉本ばなな「満月」より。「手順を暗記するほど作ったキャロットケーキには私の魂のかけらが入ってしまったし、スーパーで見つけたまっ赤なトマトを私は命がけで好きだった」。あ、魂のかけらだったのね。
2010-12-27 04:34:06そもそも自分は、幾つかのバンド、アーティストに「突破口」を見せてもらった。いや、僕が勝手にそう感じただけなのだが。でも、表現に自分の人生が滲み出るなら、誰の表現(人生)でも、誰かの突破口、もっと平たく言うと「救い」になると思うんよ。だから萎縮しないで、思い切りやってみて、と願う。
2010-12-27 02:55:15僕は所謂「社交性」ってヤツが圧倒的に欠如しているので、音楽という手段は実に有難い。楽しそうに演奏しているだけで「おっ」って思って貰えるもの。でも一番嬉しかったのは、以前自分が演ってたことを見て、「そのテがあったか!」と思って貰えたこと。自分の表現が誰かの「突破口」になり得たこと。
2010-12-27 02:45:42まあでも昨日のライヴは楽しかった。ぶっちゃけ、曲に合わせて木箱をパコパコ叩き、時々素手でシンバルぶん殴るだけだったけど。演ってる途中でふと浮かんだ発想を瞬時に試して上手く行ったりスベったり。純朴なる原点。なふ。
2010-12-27 02:39:26@syrdarya1975 ですねー。あと、創作なり表現する時って、その人の人生が否応無しに滲み出てくるわけで、その「滲み」が愛しかったりします。萎縮も表現のうちかなぁ、とか。
2010-12-27 02:34:07@seikiabeee 観客の側としては、萎縮して出るもんも出ないとしたらもったいないですよ。…といいつつ、自分が表現者側になると途端に、じょうずにやらなきゃと萎縮しますねw 心意気は忘れずにいたいです。
2010-12-27 02:28:44「技」とか「芸」ということに基本的に関心なくて申し訳ない。でも、技や芸を磨くというところに命かけてること、に、私は命のかけらを感じ取ってやはりグっとくるだろうと思う。
2010-12-27 02:26:09@syrdarya1975 「優劣を競う」ってことが、表現(者)を萎縮させてしまうことが、ままありますね。そんな人には、気にしないで、もっと自由に飛び交わさせて良いのだよ、と言うんですが。理解より先に、感じろ!と。
2010-12-27 02:24:39「ノイズが多すぎて見えないよ」と、表現者の側だけに努力を強いるのはナンセンスじゃろ。ノイズをかき分けて命を探す努力が見る側にあってもいい。「わかんねえよ、これ何?」と聞いたっていいんだし、あとでこっそりググってもいい。
2010-12-27 02:23:05結果的にその日の観客が笑うかどうか、美しいと思うかどうかは、あんまり関係ないんじゃないかと思う。まあ、リアクションあまりにも寒いと演者はヘコむだろうけど。
2010-12-27 02:11:22たとえば、笑ってくれるのが生き甲斐、という人が、真剣に人を笑わそうとすることには、命のかけらが入っているとおもう。美しいものに心打たれるひとが、美しさということをなんとかあらわそうとすることには、命のかけらが入ってしまう。
2010-12-27 02:09:49命のかけらが入ってるかどうか、だと思う。それが入ってさえいれば、たぶん、すくなくとも世界中のだれかひとりのことは、笑わせたり泣かせたりするんだ。
2010-12-27 02:07:14映画(映像作品)が、じょうずでないと上映されないとしたら。売れないと上映されないとしたら。おそろしい。どんなにへたでも、売れなそうでも、それによって救われたかもしれない生命があったかもしれない。
2010-12-27 02:03:12映像なり演劇なり音楽なり、まんがなり文章なり写真なり。表現って、だれかにとってそういうことになるかもしれない。だれかを突き動かす可能性に、出来不出来、じょうずへたなど関係ない。「要するに何が言いたいのか」。それだけでいいんじゃないのかと思っている。
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