理解と不理解のシステム
- lucifer_af
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友人達と議論のネタ<集団の中に声の大きいネガティブスピーカーがいると、周囲は萎縮したり、自分が楽しんでいる対象を批判されたくないので、意見を言わなくなる。そしてネガな人は「これ、誰も話題にしないね」と、「自分の見地=世界」として場を支配する、と。
2011-01-02 01:27:36自分の周囲と、外の評価が違う、と思った場合、自分のネガティブスピークが原因であった、というのはよくあることで。自分の周囲は自分の描く世界と同じと思っていたら、実は皆に距離をとられていただけだった、というのもよくあることですな。
2011-01-02 01:30:00周囲を認識する、というのも、結局は主観行為で、人間は自分の都合良い方にものを考えるものだったりしますしねー……。ただ、「何を言っても良い」という発言は、他人を見ていないならば、単に周囲を自己の世界で固めたいに過ぎないのだな、とか、そんなことを。ええ、OOからいろいろと。
2011-01-02 01:35:27以前にも書きましたが、無根拠に「私にはそう思える・見えている」ってのは、自分には信じるに足るもの(恐らくは自己の推察力への自負)があるかもしれませんが、他人や現実にとっては全くそうじゃないことの方が多いんですよねー……。
2011-01-02 01:41:14無根拠な推察の多くは「結論先にありき」なので、その筋道がどれだけ整っているように感じられても、そえを聞く他人の「先にある結論」が違ったら、無根拠ゆえ、全く支持は得られないんですな。そこらへん、「他人と自分は同じ結論を持っている」という無防備は危険というか。
2011-01-02 01:50:24まあ、これが、「他人は自分と同じ結論を持っていなければおかしい」だと、「自己の正義の人」になるわけで、自分の思い通りにならないものは許さない・消えろ=、という感じになる、と。
2011-01-02 01:52:28結局は自分の理解の幅が絶対であると信じているか、それ以外のものもあるよと、余裕分の枠を持っておけるかどうか、ということだと思うのですが。前者のほうが圧倒的に楽。自己の正義をかざせば周囲は萎縮するので、その正義を信じてられますし。
2011-01-02 01:55:19昨今の国家間のパワー合戦の方法もですが、いじめとかにおける「誰も止める者がいない」「別にダメージを感じてないと思った=攻撃者は正しいことをしていると感じているので、相手に”ダメージ”を与えているとは思っていない」もこれなのかな、とか。
2011-01-02 01:57:22