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黒衣の男は懐から薬瓶を取り出す。コルクの栓が詰められた、香水のような硬質で肉厚の瓶だ。瓶の中には半透明で銀色をした濁った液体が入っている。油のようでも、水のようでもある。 1
2015-09-26 02:06:47「心よ在れ。命よ在れ。時は奪い時は与える。現在、過去、未来、失われし歌をここに。我が元へ再び出でよ。己の名を呼べ。さすれば天地再びまみえん……」2
2015-09-26 02:09:11瓶を掲げひざまづいた男はそうつぶやくと、眼下に並べられたもの、命のない、動かないものを一瞥した。そこには、かつて少女であったもの、鉄鉱石、なんらかの鉱物、石油、そして血液が一箇所に集められていた。 3
2015-09-26 02:10:46「鉄は命。命は声。声は文字。文字は記憶――」 男の詠唱がひときわ甲高く病的な調子を帯びはじめる。周囲の空気が心なしか加熱しているようだ。4
2015-09-26 02:12:13自分自身が生まれた時の記憶を持っている者が居るだろうか。そう自称する者達はある。だが、それが真に存在の確立した瞬間の出来事であると、誰が知ることができるだろう。 ボルトは粗末な寝具となけなしの家具だけが雑然と置かれた部屋で目を覚ました。 7
2015-09-26 02:18:03「心よ在れ―――歌を―――ボルト――」 何だろう。夢だろうか。人間は見たこともない不思議な世界を夢に見るという。自分もその夢を見たのかもしれない。ボルトは深く考えないことにした。 8
2015-09-26 02:20:02気が重い。今日は、特別な日だ。特別な。 あの場所に行って、あの人に会わなくてはならない。わたしには、それが、辛い―― 9
2015-09-26 02:23:14できるだけ誰とも話さないように、視線を合わせず、基地の廊下を進む。 今週の食堂メニューは自分の好みだ。それは救いだった。デッドロイドにも味覚はある。人間のそれとは大きく異なるが、摂取する「素材」の構成比率、「調味料」の量、種類が重要という点は同じだ。 10
2015-09-26 02:27:16それは、もはや「まごころ」を通り越し、ただの儀式だった。 大事な何かが欠けたもの、崩れてゆくもの、それを見舞う。 かつて、自分達と同じように笑い泣き怒り悲しんだもの。 自分と似た姿をした、異なるもの。 11
2015-09-26 02:30:44「わかりますか」 返事はない。だが、巨躯がわずかに揺れ、与えられた入力を認識し解釈したことを示した。 それ以上の反応はなかった。 13
2015-09-26 02:33:20被弾による自己同一性の損耗が激しく、液状態から人間態を復元するに足る情報を得られず、ボルトの姉テスラは戦艦と一体化したままの状態であった。 14
2015-09-26 02:35:10命令に対する応答、報告が不可能であるため出撃することは叶わず、ドックで経過観察を続ける。経過観察を続けることに意味があるのかは、テスラにも、ボルトにも、担当技師にもわからなかった。 時間だけが過ぎてゆく。 雪が溶け、つぼみがほころび、葉が茂り、そしてまた冬がやってきた。 15
2015-09-26 02:39:10「姉」は、だいぶ、小さくなった。 「姉」を構成する部品は、分析の結果、ごく少なく、帰投した戦艦の一部分にしか残存していなかった。 ボルトはその両腕で抱えられるほどの小さな鉄塊へ歩みよると、話しかけた。 その相手が誰だったか。どんなものが好きか。たぐり寄せるように。反応はない。16
2015-09-26 02:42:26艦船融合型デッドロイドの本能ルーチンは、その肉体と神経系を構成する最小単位の粒子、アトムを全艦へ拡散させることで、攻撃を受けた際の損耗を可能な限り減らすよう設計されている。とのことだ。 なぜ、「彼女」は、この大きさの中に「自分」を集めたのか。それも、戦闘中に。 17
2015-09-26 02:45:24その判断、いや、自分で判断したとしても下すことのできるはずがない判断はやはり、致命的な破局を招いた。 その砲弾は「彼女」を構成するもの、それを6割以上消し飛ばしたのだ。 かろうじて外部拡張ユニット内蔵の緊急帰投プログラムが自動起動し、ここに「残り」がある。18
2015-09-26 02:49:01司令から返却された外部記憶素子には、姉の奇行を説明できるような事象は記録されていなかった。 わからない。どうしてそんなことを。幾千繰り返した自問自答を、モノ言わぬ意識の器に向けて繰り返す。気が重い。 19
2015-09-26 02:53:44「歌」「こころ」「鉄」 不意に何かが聞こえた。それは、頭の中から響いているようだった。 「鉄」「血」「記憶」 20
2015-09-26 02:55:12「姉さん?姉さんなの?」 自分と鉄塊以外に何一つない面会室に、ボルトの声が反響する。 しかし、応答はあった。 21
2015-09-26 02:56:52「涙」「時間」「戦」 それは意味をなさない単語の羅列であったが、ボルト自身の記憶を構成する断片的な単語を明滅させるかたちで、語りかけた。 「加速度」「血」「面舵」 22
2015-09-26 02:59:45その疑似言語はあまりにも拙く、明滅させている単語それ自体の意味を解釈しているかどうかすらも怪しい。 だが、明らかに眼前の鉄塊が、ボルトの呼びかけに応えるかたちで発していた。 意識の中で念じると、その応えが明滅した。 23
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