[中村政人個展]トークセッション「ことの次第はこうやって転がる ─アーティストたちの傍らにつねにいた西原 珉が語る90年前後」[実況]
- misonikomioden
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西原「90年代を堺に構造が変わってきた。それまでは西高東低。ハイネケンに行っても中原浩大がレゴだし、キリンではヤノベケンジで、そして森村泰昌、、、関西勢で、俺たちの場所は?と
2015-10-12 16:18:44原「90年代初め、西高東低と言われ、西、京都市立大アーティストが活躍し始めており、、、 西原「実際凄かった。当時の展覧会は、彼らにも大切。
2015-10-12 16:19:35西原「システムが整いつつあるように見える。しかしまだ自分たちがそこで何かできるか分からない状態。ニューヨークで感じたことが身近になりつつあるが自分たちはどうするか、と。
2015-10-12 16:20:10西原「まだ居場所が無かった。その後に、、当時東京のアーティストは貸画廊問題があった。貸画廊で展覧会するにはお金を支払う必要があり、そうでなくても良い、と出てきたものがある
2015-10-12 16:21:04西原「情報の入口が限られてるのが中国だが、90年代も同様。 ネットもないし誰かに聞くか、美術手帖の発刊を待つか、、、しかしそこにバイアスがあるし、そこで必要な情報を知るには、と そのギャップを埋めたかった
2015-10-12 16:22:26西原「美術教育について。藤枝先生以外は現代美術でなく、よくてデュシャンでそれ以降がなく、先生から智識が入ってこなかった。 そこでなんとかしたい、と
2015-10-12 16:23:14[修正] そのような人たちと関係をどんどん持っていた、ということ twitter.com/misoni_2013/st…
2015-10-12 18:33:48西原「ギャラリストが出始めており、小山登美夫とか、メディアでは椹木野衣とか、、そのような関係から紹介があったりしてアーティストで小沢剛や会田誠などを紹介されたり。 携帯ないので毎日人と会って、飲んで、話してた。90年、91年の話。
2015-10-12 16:26:18原「当時はスパイラルでいろんな展示してた 西原「そこでいろいろ知り合いになる。そこで知った人間関係など村上隆はFAX新聞で流したりしていた
2015-10-12 16:27:11西原「しょっちゅうオープニングに現れる集団がいて、めだってて、派手な恰好する女の子いて、、、不安になって気になる。ある時から名前がついて村上軍団、と。知名度出てきて後に集客に繋がる
2015-10-12 16:28:17西原「関わったアーティストについて。 ここではキューレションしたり展示に関わった人を。 中村政人、村上隆、中村と村上展。
2015-10-12 16:29:19西原「真島竜男、私は第二回NICAFでブースを担当したが、若いアーティストへ作品店に来いとプレゼンの機会を与えた、中山ダイスケもいて、そこで気に入ったのが真島。
2015-10-12 16:31:00西原「西山美なコ。テレクラ、それは電話番号にかけると女の子が応えるというシステムだが、それをギャラリーでやった。実際に電話もかかってきた
2015-10-12 16:31:53西原「コンセプチュアルアートが好きなので、本人はそう言わないが、其の強さがあるアーティストだと思い、プロデュースした。 この
2015-10-12 16:32:24西原「他にも面白い展示がある。ティビナコメディア(?)。それを見に神戸まで皆で行った。大きな体感型展示で、真っ青なゼリーがありそこに防護服を来て寝転ぶと音楽が聞こえるとか。今考えるとすごい
2015-10-12 16:33:54[修正]ティビナコメディア→ディヴィコメディア twitter.com/misoni_2013/st… twitter.com/shinkawa_takas…
2015-10-12 18:25:07西原「何かあれば情報交換して借金しても見に行くみたいなことした。 蔡國強に万里の長城に関する作品があるが、それを見に行ったり。
2015-10-12 16:35:14西原「レントゲン藝術研究所はほんとに大きく、 原「大森は工場があるところで、当時は銀座が中心で狭い場所で十数万払い展示する中で、まるで異なる場所だった
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