作家・高橋源一郎先生による「『痛み』としての教育」

作家・高橋源一郎先生の「午前0時の小説ラジオ」です。 青少年都条例は、青少年の教育を掲げていながら、 青少年の実情・目線はないがしろにされています。 本当の教育とはどんなものなのでしょうか。今回のお話にそのヒントが隠されている気がします。
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高橋源一郎 @takagengen

「教育」21・「…肯定・否定の意志をつたえ、禅宗で葬儀をするようにと遺言状で書いてあったものをキリスト教クエイカー派に変えるようにということだった。クエイカー派に変えるということは、中年以降の彼の政治行動からはなれる決断だった。母は、臨終でまわりのものひとりひとりに感謝し、…」

2011-01-16 00:55:21
高橋源一郎 @takagengen

「教育」22・「…自分の人生に感謝して死んだ。柳宗悦の妹の今村千枝子が臨終に際して、六人の子どものひとりひとりにあいさつするのを描いた『妹の死』を思った。明治生まれの女性は、このように死に対する作法をおさないときから心得ているのかもしれない」

2011-01-16 00:56:56
高橋源一郎 @takagengen

「教育」23・鶴見は、生誕に始まり死に終わるまで続く「教育」の最後の目的を「死」を迎え入れる準備をすること、としている。ならば、それが、学校に留まらないことも、誰よりも、家庭の中で先行する誰かが、遅れてやって来る者に向かってするものであることがわかるだろう。

2011-01-16 00:59:04
高橋源一郎 @takagengen

「教育」24・「生」と「死」について語ることができない「教育」は「教育」の名に値しないのだ。だが、それは、どうやってすればいいのだろう。「私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年のときで」

2011-01-16 01:01:49
高橋源一郎 @takagengen

「教育」25・「岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、『おとうさん、自殺をしてもいいのか?』とたずねた」

2011-01-16 01:03:07
高橋源一郎 @takagengen

「教育」26・小学校六年の子どもから「自殺してもいいのか?」と訊ねられた時、みなさんなら、どう答えるだろう。ぼくが、鶴見俊輔という哲学者に絶対的な信頼を抱くようになったのは、その答を読んだ時からだ。少し、考えてくださいね。

2011-01-16 01:05:48
高橋源一郎 @takagengen

「教育」27・「私の答は、『してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいいい。』そのときの他に、彼と男と女についてはなしたことがない」

2011-01-16 01:10:40
高橋源一郎 @takagengen

「教育」28・鶴見の「答」は、通常の意味では「答」ではない。なぜなら、その回答は、戦争中、鶴見が自分に対して決めていた信条(クレド)だからだ。捕虜してアメリカに抑留され、その後、帰国して兵士になった鶴見は、いざという時、「敵を殺す」役割を与えられるなら自殺しようと決めていた。

2011-01-16 01:13:25
高橋源一郎 @takagengen

「教育」29・(戦場で)誰かを強姦するような心理に自分も巻き込まれそうになったら、その前に自殺しようと考えていた。だから、鶴見の「答」は「私はそう考える」にすぎない。だが、子どもの「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」に答える、とは、ありもしない「正解」を伝えることではない。

2011-01-16 01:15:52
高橋源一郎 @takagengen

「教育」30・「その問題について、わたしはこうした。おまえは、どうする。おまえに、信条(クレド)あるのか。ないとするなら、なぜなのか」と問い返す以外にはないのである。この「わたしはこうした」の中に、「きみも、きみ自身の信条(クレド)を作れ」という言明が存在するのではないだろうか。

2011-01-16 01:18:35
高橋源一郎 @takagengen

「教育」31・「ならいおぼえたものを伝える」だけの教育者は、「ならいおぼえたものを伝える」ことしか知らない者を産み出す。個人的な「痛み」を通過した「信条(クレド)」の伝達だけが、次の「信条(クレド)」を産み出す産婆となる。それを、鶴見は「教育」と呼んだのである。

2011-01-16 01:21:10
高橋源一郎 @takagengen

「教育」32・「教育」はどこかの「教育者」がやるのではない。ぼくが(あなたが)、誰かにほどこすものであり、そのことによって、ぼくが(あなたが)ほどこされるものなのである。そして、その中心には、ぼくの(あなたの)「痛み」を必要としている。今晩は、ここまでです。ご静聴、ありがとう。

2011-01-16 01:25:50