2016年3月15日の、デビュー10周年にむけて。 連続ツイート企画 【いきものがたり】 不定期更新です。 (前回までのツイートは水野のアカウントの「いいね」からご覧頂けます。)
2015-11-19 10:21:18『第4回』 今日の1枚。 このタンバリンは今も現役で使われています。 pic.twitter.com/mV2C9sq6sa
2015-11-19 10:23:07(66) 吉岡は、地元の音楽大学への進学を決めていた。将来は歌をつかった仕事を…と考えていた彼女は、歌から踊り、芝居まで、広く多くのことを学べると考えてミュージカル科を選んだ。
2015-11-19 10:25:00(67) 新しい大学生活もすこし落ち着きはじめた頃だろうか、水野と山下は、受験生時代に話し合ったように、いきものがかりの活動を本格的に再スタートするつもりでいた。今度は、思い出づくりではなく、互いの将来を賭けるものとして。
2015-11-19 10:26:33(68) さっそく吉岡に声をかけると、しかし、思いもしない言葉が返ってきた。「歌いたくない」
2015-11-19 10:28:29(69) 高校生まで、ほぼ独学に近いかたちで、自由に歌に接してきた吉岡。歌好きな大家族のもとで育った彼女は、祖父母や両親に教わった童謡から、クラスのみんなの人気者になれるポップスまで、本当にのびのびと、天真爛漫に、歌を歌ってきた。
2015-11-19 10:30:22(70) それが音大に進学し、専門的な訓練にはじめて触れて、容赦ない評価を指導者から下される環境に入った。同級生たちも、能力のある人間ばかり。ただ楽しく歌っていた歌に、吉岡はこのときはじめて、真正面から向き合うことになった。
2015-11-19 10:32:17(71) いざ真剣に向き合ってみれば、自分が技術的に足りない部分が山ほどあることに気づく。彼女いわく「歌い方がわからなくなる」ほど、混乱もした。それまで心のおもむくままに歌ってきたものを、順序立てて考えていかなければならなくなって、戸惑ってしまったそうだ。
2015-11-19 10:34:04(72) 基礎も築けていないのに、軽はずみにポップスを歌えない。将来的にポップスを歌うところまで行き着きたいけれど、まだそんな段階にはない。生来の生真面目さもあるのだろうけれど、真正面から考えた結果が、まだ「歌えない」という言葉だったようだ。
2015-11-19 10:36:40(73) いや、困った。本当に困った。大人になった今から振り返れば、そのときの吉岡の言葉も理解できるけれども、当時は活動ができないということに対する焦りが強く、自分自身は大きく戸惑った。説得というより、ただの喧嘩だ。吉岡とは何度もぶつかった。
2015-11-19 10:38:26(74) そうこうしているうちに、今度は山下が海外に行ってしまった。いきものがかりの活動が進まないとわかると、彼はそのまま東南アジア各国をまわるバックパッカーの旅に向かった。たびたび1、2ヶ月の長い期間をとって、日本を離れる。たまに居場所と生存を伝える英文のメールがきた。
2015-11-19 10:40:46(75) 山下はそうやって活動休止期間をやり過ごしていたが、自分はそこまで器用ではなく、活動ができないことがつらくて仕方がなかった。心のなかでは音楽の道に進もうと、もう固く決意していた。なのに、自分はたった1歩でさえ、前に進んでいない。それが、つらすぎた。
2015-11-19 10:42:10(76) のちに書くと思うけれど、いきものがかりはデビュー直前にレコード会社の育成期間があって、それもタフな時間だった。だけど個人的にはこの頃のほうがつらかった。前に進むことで生まれるつらさは、まだいい。前に進めない。トライもできない。動けない。そのことの方が、よっぽどつらい。
2015-11-19 10:44:46(77) ただ不思議と、吉岡以外のボーカリストを探そうという話には、一度もならなかった。水野も山下も、自分たちの真ん中にいるのが吉岡であること、逆に言えば吉岡の両側にいるのが自分たちであること。それ以外の想像がつかなかった。何の根拠もないのに、そう思っていた。
2015-11-19 10:46:04(78) 本厚木の駅前にサイゼリアがあって、そこでよく話し合ったのを覚えている。大学1年も終わりかけ、自分はもう、やけになってしまっていて「もうこれ以上は待てない。自分は音楽の道に進みたいから、いきものがかりからは離れて、自分でなにかやる」と二人に告げていた。
2015-11-19 10:48:11(79) 帰国した山下はそれを聞き「そろそろやばいかな。本当に解散してしまう」と思ったそうだ。山下自身も旅先で色々と考えていたようで、このままだと自分がせっかく書いた曲も、いつか自分の子供に自慢して終わるだけの、ただの思い出になってしまう。それではむなしいなと、思ったらしい。
2015-11-19 10:50:09(80) 2003年の2月。水野は自動車免許をとろうと、山形の余目に合宿教習を受けに行った。のどかな田園風景のなかで教習を受けていると、突然山下から電話が入った。「なんか、きよえ。やる気らしいよ。」「は?まじか!?」
2015-11-19 10:51:43(81) 山下は常々ぶつかりあっている吉岡と水野をみかねて「良樹がいると話がこじれるな」と思ったらしく、水野がいない時期を狙って吉岡を呼び出し、1対1で話し合って「やってだめなら、やめればいい。だったら一度はやってみたら。」と説得したそうだ。吉岡が、それであっさり折れたという。
2015-11-19 10:52:56(82) 寸分たがわぬ言葉を1年間にわたって水野も吉岡に伝えていたが、たった1回の山下の言葉のほうがなぜか効いてしまい、吉岡は説得に応じた。…という話は、いまでもよくネタにする笑い話だが、つまるところ、水野と山下は、吉岡がボーカルでいてくれることをあきらめなかった。
2015-11-19 10:55:18(83) 本人たちにその自覚があったかどうかは別にして、この2003年に、3人と、3人を遠くない未来に支えていく多くの人々の、人生の歯車が少しずつ噛み合い始めていく。出会いは、もうすぐそこにあった。ただまだ3人は、本当に3人きりだった。そこには、僕らの他に、まだ誰もいなかった。
2015-11-19 10:59:07