即興小説・黒と白と赤の話

即興で書いた話です。
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佐々木匙@やったー @sasasa3396

あるバーに、古ぼけたピアノを弾くピアノ弾きがおりました。腕はまあ、そこそこ。お客からリクエストを受けては即興で演奏をしてみたりと、評判は良かったようです。それに背も高く、なかなかの色男。これは女たちも放っておかないだろうと思いきや、彼には浮いた噂がひとつもありませんでした。

2016-01-18 02:34:34
佐々木匙@やったー @sasasa3396

誰かにそのことをつつかれると、「僕は黒鍵と白鍵の世界で暮らしているからね。色恋なんて余計なものさ」などと冗談めかして言ったものでした。さて、そんなある日、バーのマスターが一人の女性をピアノ弾きに引き合わせました。「来週から彼女の歌に合わせてくれないか」彼女は歌手でした。

2016-01-18 02:36:44
佐々木匙@やったー @sasasa3396

彼女はゆるく縮れた髪に、いつも赤い大きな花を挿しておりました。暗い照明のバーの中で、その花はいつでもぱっと明かりに照らされているかのようにきれいに映えていました。彼女の歌はなかなかのもので、ピアノ弾きの演奏にもよく合いました。ぴったりと言ってもいいくらいです。

2016-01-18 02:38:15
佐々木匙@やったー @sasasa3396

そう、二人の息はぴったりでした。自分たちでもびっくりしたほどです。彼には彼女の息継ぎのタイミングがよくわかりましたし、彼女は彼が時折テンポを速めたり、遅くしたりするのにやすやすとついていきました。このコンビが功を奏し、バーのお客はぐんと増えました。

2016-01-18 02:40:02
佐々木匙@やったー @sasasa3396

まるで、二人で踊っているかのようだ。ピアノ弾きは指を走らせながら思いました。こんなに息の合う仕事相手はこれまでいなかった。なんて楽しいんだろう。そんなことを思ったのは、この仕事をしてきて初めてのことでした。ピアノ弾きはなんだか浮かれてすらおりました。

2016-01-18 02:42:57
佐々木匙@やったー @sasasa3396

彼女が歌い始めて、二年ほどが経ちました。ピアノ弾きと歌手は、お互いの話はほとんどしないままに、欠かせない相棒となりました。ずっとこうしていたい、ピアノ弾きはそんなことすら思っていました。さて、そんなある日のことです。ピアノ弾きはいつもより少し早く店に出て、練習をしておりました。

2016-01-18 02:45:19
佐々木匙@やったー @sasasa3396

がちゃ、とドアが開き、裏手から歌手が現れました。ドレスではなく普段着です。もちろん、髪に花も挿さっていません。「今日は早いね」ピアノ弾きは声をかけました。彼女は曖昧に頷きました。「ねえ、ちょっと相談させてもらってもいいかしら」おや、と彼は思います。それはとても珍しいことでした。

2016-01-18 02:48:04
佐々木匙@やったー @sasasa3396

彼が驚きながら頷くと、彼女は喋り始めました。「お客さんにプロポーズをされたの」と。どうも話を聞くだに、決してふざけた態度でもないらしい。真面目に将来のことを考えているらしい。相手はそう裕福ではないから、仕事はこれからも続けると思う。そんなことを歌手は語ったのです。

2016-01-18 02:50:10
佐々木匙@やったー @sasasa3396

ピアノ弾きは、少しだけ身体を震わせました。いつかこういう日が来ると、覚悟はしていたような気もします。「君はその人のこと、好きなの」「わからないわ」彼女は目を伏せます。「でも、好きになれそうな気がするの」「どうして僕に相談したのかな」「あなたの意見が大事なような気がしたの」

2016-01-18 02:51:03
佐々木匙@やったー @sasasa3396

ピアノ弾きは、歌手の目を見つめました。歌手も、彼の目を見つめ返しました。ぱちぱち、と薔薇色の電気のようなものが走ったような、そんな気がしました。それは一瞬のことで、だからピアノ弾きはなかったことにしました。仕事仲間として誠実な答えを返しました。

2016-01-18 02:53:15
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「受けるといいんじゃないかな」彼は笑います。「きっと幸せになれるよ。おめでとう」彼女は瞬きをして、それから口元をほころばせました。「ありがとう」これでいい、と彼は思います。これでいいんだ、と。そして、花瓶に挿さっていた赤い薔薇の花を千切って、彼女の髪に挿しました。

2016-01-18 02:56:07
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「仕事を辞めると言ったら止めるつもりだったけどね」彼は笑みを浮かべます。「これからも一緒にできるなら、何も問題はないさ。この花はひとまずのお祝いだ」彼は、ふう、と気付かれないように息をつきました。彼は、自分が秘めていた恋心をなんとか隠しおおせたのです。

2016-01-18 02:59:01
佐々木匙@やったー @sasasa3396

彼の恋心は、どこか変わっていました。ピアノ弾きはとにかく、彼女と一緒に音楽を奏でたかったのです。自分が彼女の横に立つことはよく考えました。しかし、その度に思うのです。最初はいい。だが、いずれ関係が変わって、冷えてしまったら? そうしたらもう二度と楽しく演奏ができないのではないか?

2016-01-18 03:01:11
佐々木匙@やったー @sasasa3396

だから、ピアノ弾きは彼女に想いを告げることができませんでした。いつもそう、彼はずっと先のことを考えては恋にブレーキをかけてばかり。だから彼には浮いた噂のひとつもなかったのです。彼女はやがてスカートを翻して控え室に入りました。ピアノ弾きはしばらく黙ってじっと立っておりました。

2016-01-18 03:03:35
佐々木匙@やったー @sasasa3396

ピアノ弾きは不意に、花瓶の薔薇の花をもう一輪、今度は乱暴に摘み取りました。ぐしゃぐしゃになった花びらを、ピアノの鍵盤の上に撒き散らします。黒鍵と白鍵の上に、もう一色、真紅がはらはらと落ちました。それは、彼の恋の色でした。今まさに終わる恋の色でした。

2016-01-18 03:05:35
佐々木匙@やったー @sasasa3396

ピアノ弾きは鍵盤に指を落とし、ひどい不協和音を響かせ、そして、乾いた声で喉を震わせ、聞こえないように小さく笑いました。

2016-01-18 03:06:37