山本七平botまとめ/【法と倫理の間】「法の前に人は平等」と「期待の倫理」/~「民主的」の名のもとに中国の専制政治の考え方「”聖人君子”政治倫理法」が復活しかねない日本社会~

平『「常識」の非常識』/Ⅴ日本人の神話/法と倫理の間/218頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【法と倫理の間】「政治倫理法を制定せよ」 こういう声があったことが、新聞に小さく報道された。 『「空気」の研究』(文藝春秋)で記したが、日本は「教義(ドグマ)」なき国なので、「政治倫理」という「空気」が出来てしまうと、それが万能になってしまう。<『「常識」の非常識』

2016-05-20 18:38:50
山本七平bot @yamamoto7hei

②「政治」「倫理」「法」という、それそれの定義が相当にむずかしいものを、このように簡単に一体化してよいのであろうか。 だがこういう「空気」が出てくることは、それを可能にする伝統的背景があるからであろう。 この点について少し考えてみたい。

2016-05-20 19:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

③「法」と「倫理」は同じではない。 簡単な例をあげれば競馬・競輪・競艇に行くのは「法的な罪」ではなく、従って罰せられない。 しかし個人がゲーム機械で競艇同様の賭場(とば)を開いて客を呼べば共に罰せられる。

2016-05-20 19:38:50
山本七平bot @yamamoto7hei

④賭博が非倫理的だからというなら、一方を罰して一方を罰しないのは確かにおかしい。 しかしこれは「倫理」から見ておかしいのであって、「法」から見ておかしいのではない。 さらに「法」は強制力をもっているが「倫理」はもたない。

2016-05-20 20:09:08
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤「賭博は非倫理的行為だからしない」のは「倫理」だから、 「万人がこれをしてはならない、競馬・競輪・競艇に行ってはならない」 と他に強制することはできない。 さらに「法の前に人は平等」だが、「倫理」は必ずしもそうではない。 いわゆる「期待の倫理」がある。

2016-05-20 20:38:50
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥いわば職業的泥棒が泥棒をすることと、聖職者が泥棒をすることを人は同じと見ない。 もちろん法的には共に平等に罰せられるであろうし、そうあるべきだが、倫理的糾弾は聖職者の方がはるかに強く受けるであろう。

2016-05-20 21:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦これは倫理的に見れば当然だが、だからと言って「聖職者倫理法」という特別な法をつくるということは許されない。 これらは近代社会においては当然の前提であり、これが崩れたら大変である。 政治学者モスカは次のように言っている。

2016-05-20 21:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧【…一般に、人々は、自分達の支配者に対して、最もデリケートな道徳的資質をもち、公的利益のほうを多く考えて、自分の利益を考えないようにと主張するが、自分自身が問題となり、特に自分が他人を追い越して最高の地位につこうとしている時には、(続】

2016-05-20 22:09:19
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨【続>今度は自分が、何の苦痛もなく、支配者の間違いない道案内になっている教えを守るのである。 だから実際問題として、我々が支配者に正当に要求できるのは、せいぜい、支配者たる彼らが、自ら統治している社会の道徳の平均水準以下に落ちてほしくないこと、(続】

2016-05-20 22:38:53
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩【続>自分の利害をある程度まで公的利害と調和させてほしいこと、そして、余りにも低劣で、余りにも安っぽく、余りにも反感を買うようなこと――要するに自分が生活している環境の中でそれを行えばその人の地位が失われるようなこと――は何一つしてほしくないということだけである。】

2016-05-20 23:09:12
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪私などはまさにこの通りだと思うし、私の見るところ、普通の日本人の政治家への「期待の倫理」は、だいたいこの線だと思っている。 だがこれはあくまでも「倫理」であるから「期待」はできても、「法」のように強制することはできない。 そしてできなくても当然なのである。

2016-05-20 23:38:53
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫そしてこのモスカの考え方では「政治倫理法」はもちろん、特別な「政治倫理」というものがあるという考え方もしていない。

2016-05-21 08:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬ただ要請されているのは、 「社会の道徳の平均水準以下に落ちてほしくないこと」 であり、それならば、要請されているのはごく一般的な「社会倫理」であっても、何か特別な「政治倫理」ではない。

2016-05-21 08:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭ではなぜ「政治倫理法」などという不思議な、まことに非近代的な考え方が出てくるのであろうか。 これはやはり日本が、中国文化の影響を強く受けつづけて来たからであろう。 中国では皇帝と官僚は「聖人君子」であらねばならなかった。

2016-05-21 09:09:21
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮というのは、一般の庶民とは違う「政治倫理」を要請されたのである。 すなわち 「刑は士大夫にのぼせず、礼は庶人に下さず」 で、士大夫は一般の法の適用をうけないが、それより厳しい倫理に従わねばならず、大きな権限をもっていたが、同時に法の保護をうけられないという位置にいた。

2016-05-21 09:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯庶人は法を犯さない限り刑にふれることはなかったが、士大夫は「賜死」で自殺しなければならず、このとき法の保護はなかった。 それはまさに士大夫だけに適用される「政治倫理法」があったと言ってよい状態だったのである。 そこには前述のモスカのような原則はない。

2016-05-21 10:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰伝統とは不思議なもので、それが全く忘れられているように見えて、外来の思想が来ると「掘り起こし共鳴現象」を起こして、別の表現で復活して来る。 このことを指摘されたのが、京大の矢野暢教授で、非常に重要な指摘だと思う。

2016-05-21 10:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱「民主的」の名のもとに、中国の専制政治の基本的な考え方が復活して来ることももちろんあり得る。 文化を考える場合、この視点を常に失ってはならないであろう。

2016-05-21 11:09:07