5月31日 三笠の昔話

第一次世界大戦:ユトランド沖海戦(1916) 太平洋戦争:特殊潜航艇「甲標的」によるシドニー港およびマダガスカル:ディエゴスアレス港襲撃の日(1942) #三笠の昔話
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戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

今日は、海戦と言えば日本海海戦と並びよく引き合いに出される「ユトランド沖海戦」(1916)が始まった日です。 全参加艦艇250隻あまり、そのうち戦艦だけを数えても実に42隻!42隻ですよ! #三笠の昔話

2014-05-31 20:20:56
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

日本が所有した戦艦・巡洋戦艦(富士級以降とする)は28隻、石見ちゃん他の戦利艦を入れてようやく34隻。 英戦艦群が28隻ですから、歴代ライダー勢ぞろいな某映画もびっくりの、一大スペクタクルなのです。 #三笠の昔話

2014-05-31 20:25:42
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

参加艦艇数も他の追随を許さないところですが、何よりこの海戦を有名にしたのは、「英巡洋戦艦の一発轟沈×3!」。 指揮した英・ジェリコ提督は、「血塗れになった今日の我が艦隊は、何かがおかしいんじゃないか」という名言(迷言?)を残しています。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:21:54
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

その原因だったのが、当時の戦艦の水平装甲の薄さ。 私の時代ですと、射程の都合砲弾はかなり浅い角度で飛んでくるため、垂直装甲(盾)は厚いのですが、空から何かが降ってくることは想定外であり、水平装甲(笠)はペラペラでした。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:28:00
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

ところが弩級戦艦の登場で艦砲は否応なく強化され、射程もぐっと延びました。そして、遠距離から撃たれた砲弾はかなりの角度をもって目標に到達するようになったのです。 しかし、英独ともにそのことに気付いている人はまだ居ませんでした。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:35:53
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

折りしも世界のトレンドは、高速重武装の巡洋戦艦。その設計のしわよせは装甲へ回されました。 この矛盾が火を噴いたのが、ユトランド沖海戦だったのです。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:37:58
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

ただでさえ薄い装甲の、しかも最も薄い天蓋を撃ち抜かれ、英巡洋戦艦クイーン・メリー、インディファティガブル、インヴィンシブルが一発轟沈。 古来より、無敵(インヴィンシブル)を名乗る者が無敵であった試しなし。南無。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:40:12
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

一方で、独艦隊は、装甲と砲弾の入射角の関係には気付いていなかったものの、先立つヘルゴラントバイト海戦で似たような被害を受けかけたことで、ダメコンでなんとかする方法を編み出していました。 結果、一発轟沈なし。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:42:38
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

海戦の詳細は述べ始めると面倒なので避けますが、東郷元帥・秋山参謀の見立てでは「英の戦略的勝利B」だそうです。 ただ、沈んだ数だけ見ると、英国は戦艦3装甲巡4駆逐8、戦艦7大中破、独国は戦艦2軽巡4駆逐5、戦艦9大中破なので、独国若干優位かな? #三笠の昔話

2014-05-31 21:48:44
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

これ以降、水平装甲の見直しが進み、大落角にも耐える設計が盛り込まれるようになりました。 が、その設計が大和ちゃんで完成を見るころには、もう戦艦の時代は終わっていたんですけどね。 #三笠の昔話

2014-05-31 21:53:55
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

それにしても、ユトランド沖海戦に参加した戦艦たちって、カッコイイ名前が多いですよね。(個人的感想ですけど・・・) 個人的に一番好きな名前は、「クロンプリンツ・ヴィルヘルム」ですかねえ。艦として一番好みなのはエジンコートです(ちょっと逆説的な意味で)。

2014-05-31 22:08:09
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

さて、先のイベントでは甲標的を積んだハイパーズが大活躍した、というご報告を多く聞きました。その甲標的、活躍したのは真珠湾だけではありません。 今日は、日本特殊潜航艇「甲標的」によるマダガスカル島ディエゴ・スアレス港襲撃ならびに豪シドニー港襲撃の日(1942)です。 #三笠の昔話

2015-05-31 22:39:33
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

真珠湾攻撃、およびディエゴ・スアレス港・シドニー港攻撃では結果的に全艇が未帰還となりましたが、甲標的の運用はこれで終わったわけではなく、ソロモンの戦い、比島の戦いにも投入され、こちらは戦果こそ少ないものの生還率はそこそこ高いものとなっています。 #三笠の昔話

2015-05-31 22:49:40
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

もっとも、甲標的自体 ・潜航攻撃するにしても、敵確認手段が潜望鏡しかない ・潜望鏡を上げるとかなりの確率で頭が出てしまい、見つかる ・水中姿勢が安定せず魚雷の命中精度が低い ・可潜時間はたかだか12時間 ・運動性が極めて悪い など欠点が多く指摘されていました。 #三笠の昔話

2015-05-31 22:52:40
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

ちなみに、シドニー港攻撃のあと引き揚げられた甲標的の一部は今も現存しており、シドニーの記念館で観覧することができます。 豪州ご旅行の折には、こちらもぜひチェックを。

2014-05-31 22:49:44
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

一方で、30日に開始されたマダガスカル攻撃では甲標的が英戦艦ラミリーズちゃんの砲塔直下に魚雷を命中させる戦果を挙げました。 乗員のうち、2名は予定通り甲標的放棄の上マダガスカルに上陸、母艦とのランデブーを目指したのですが・・・ #三笠の昔話

2014-05-31 22:39:42
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

ランデブー前に現地住民に発見され、警備隊により包囲されてしまいました。警備隊は降伏を勧めましたが、両乗員はこれを拒み戦闘の末戦死。 このため、マダガスカルには甲標的乗員の慰霊碑があります。もしマダガスカルまで遠征される提督がいらしましたら、ぜひチェックを。 #三笠の昔話

2014-05-31 22:43:39
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

去年もご紹介しましたが、シドニー港襲撃で戦死した乗員たちのうち遺体が回収された4名は、現地で海軍葬が執り行われ遺骨は日本へ返却されました。 これは外交上の理由もさることながら、第一次大戦中豪国を支援した日本への返礼であったとも言われています。 #三笠の昔話

2015-05-31 23:04:41
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

その支援とは、 ・南太平洋航路、通称ANZAC連絡航路の海上護衛(第三特務艦隊(初代筑摩+初代矢矧)が担当) ・豪国初の外征戦となったガリポリの戦いに軽迫撃砲(俗称ジャパニーズ迫撃砲)を提供 #三笠の昔話

2015-05-31 23:08:49
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

荼毘にふされた遺骨は交換船により日本への帰国を果たしました。 もちろん、ある程度の政治的思惑のもとで行われた措置ではあったものの、やはり海軍軍人として心打たれるものがあったようで、回収・海軍葬を支持した豪の提督は乗員の勇気を称える弔辞を述べたと言われています。 #三笠の昔話

2014-05-31 22:33:24
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

そして、転載ですが、海軍葬での豪提督のコメントを。 「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」 #三笠の昔話

2015-05-31 23:11:11
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

敵地に自らの命を散らした勇士たちに、黙祷。 #三笠の昔話

2015-05-31 23:23:45
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

引き揚げられる甲標的(松尾艇または中馬艇)。その艇体は今も豪国で見ることができます。 upload.wikimedia.org/wikipedia/comm… pic.twitter.com/qGRz3M94si

2017-05-31 19:35:05
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