「聖の性」から見る僧侶と淫戒

江戸以前の日本における性のあり方について考えます。すいません長いです。 古来日本における女性の地位について http://togetter.com/li/1042094 の続きのようなそうでもないような。
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波島想太 @ele_cat_namy

先述の批判にある日蓮宗に限らず、多くの寺で娘を芸妓に出し、息子は肴屋(酒を出す店か)で働かせるなどということをしていた。住職が遊女に入れ込んで堂が大破するに及ぶなどは枚挙に暇がない。

2016-12-03 22:36:46
波島想太 @ele_cat_namy

出家の男色も相変わらずであるが、事実とは別に格好の創作の題材になり、いくつもの草子に描かれた。「耳嚢」には、男色をしたことのない老武士がどんなものだろうと自分で貼り形を使って試してみたところ、悶絶し気絶したという話が載っている。

2016-12-03 22:37:00
波島想太 @ele_cat_namy

比丘尼に関しては、熊野比丘尼という売春婦のような集団もいたから、一般の比丘尼と区別するには資料をよく検分しなければならない、としている。とはいえ正規の尼寺にいる比丘尼といえども、歌舞伎役者に心を奪われる者も多かった。若後家が出家するも、役者の情婦になり還俗することもあった。

2016-12-03 22:37:12
波島想太 @ele_cat_namy

つらつらと本書のエピソードをつまみ食いしてきたわけだけれども、真偽の程はさておき、近世以前の僧尼のほとんどが高潔というわけではない、むしろ欲にまみれた俗人である(少なくとも非出家者たちはそう見ていた)ことをまざまざと見せ付けられる。

2016-12-07 23:16:08
波島想太 @ele_cat_namy

本書に関心を持ったのは「禁欲的な生活が性に潔癖な精神を生むか」なので、 ・淫戒を重んじているが、やむを得ず姦淫することになった僧 ・はなから戒律など守る気がない僧 をよく区別する必要がある。中間には「決まった妻を持ち、その相手と子を為す程度なら問題ないと考えている僧」もいる。

2016-12-07 23:16:26
波島想太 @ele_cat_namy

ここで紹介したものでいえば、夢で予言された将来の結婚相手を淫戒を守るために殺害しようとした湛慶がかろうじて前者に該当するだろうか(殺戒は守らなくていいかという話もあるが)。あるいは男根の萎える薬を服用して禁欲を試みた僧くらいか。

2016-12-07 23:17:17
波島想太 @ele_cat_namy

改めて読み返してみても、後者の類の破戒僧があまりにも多く、正直言うと私の疑問については、あまり参考になっていない。

2016-12-07 23:17:33
波島想太 @ele_cat_namy

近年の科学の進歩は目覚しく、かつては神仏に祈るくらいしかなかったことでも、さまざまな対策が取れるようになった。むしろ神頼みは非科学的なものとなり、僧の役割はこんにちと近世以前とでは大きく異なる。現代の僧の感覚で考えようとすると少しずれてしまいそうである。

2016-12-07 23:17:46
波島想太 @ele_cat_namy

少なくとも出家に対する淫戒は古代より存在したし、しかしそれがご覧の通り守られない、時折引き締めはあってもなくなりはしない、という歴史が1200年以上の間繰り返されてきた。

2016-12-07 23:17:57

冒頭で省略した出家の始まりについてです。長いのでツイートでなくテキスト貼り付けでご紹介します。

日本ではじめて出家らしきものが生まれたのは、仏教伝来後約五十年、敏達天皇13年(584年)とされる。蘇我馬子が百済から手に入れた仏像に使える供養僧を求めたことに始まる。
馬子は播磨の国に高麗から来た還俗僧がいると聞き、これを師として三人の女性を出家させた。自宅近くに仏殿を作り、仏像を安置し、三人の尼を置き、仏法らしき営みを開始した。
しかしこれらの尼は仏教の規則に則った正式な尼ではなかった。後に百済での仏教の在り方を知り、この尼たちは百済に行って正式な尼になりたいと申し出て、やがて大陸に渡って一年半後に帰国する。
それでも本来ならば比丘尼の身分は「たった一年半」で得られるようなものではなく、ここで得たものは異例の便法、若しくは簡易的なものと考えられる。
そして帰国したこれらの簡易尼の下、数多くの尼と法師が誕生したが、その正統性ははなはだ疑わしいものである。それでもこれらの出家が飛鳥時代の寺院建立、制度設計と深く関わっている。

推古天皇32年(624年)には僧816人、尼569人がいたというが、そのうち約千人は同年に馬子の病気平癒を祈るために急遽出家したものである。
このときに、百済の僧観勒は「この国の僧は法を習っていない」と看過し、出家の正しい手続きもしていないし、戒律の内容どころか存在すら知らない烏合の衆であると説いた。
孝徳天皇大化元年(645年)に、ようやく渡海僧十人に指導されることで出家が果たせることになり、若干は質の向上が期待されるが、その効果はうかがい知れない。
後に定められる「僧尼令」の中で僧尼に対する戒律が定められたが、これは公権力による宗教者への規制であり、つまりそれだけ教団内の規律(内律)が乱れていたことの証左でもある。
僧尼令の戒律は多くはないが、第一条に「殺人、淫、盗、及び詐りて聖道を得たりと称する」もの、と明記されている。これを破れば僧尼としての身分を剥奪される。
ただしこのうちの婬戒だけは、これを犯して一旦は追放されても、懺悔することで復帰できる可能性がある。
このほか、僧坊に婦女を、尼坊に男夫を泊めると、その日数により労働奉仕刑が課せられた。性交自体は第一条で触れるため、そうしたことがなくても、その可能性を招くこと自体も禁じられたわけである。

こうした取締りが行われるということは、そうした破戒僧が数多くいたということでもある。
とはいえそんな覚束ない出家制度に疑念を持つ者も現れ、678年には出家の行事に関する調査報告書のようなものが著され、また733年には遣唐使に随伴し、帰国の際に伝戒師を招いた。
十師が揃って正式な如法の授戒が行われるのは、天平勝宝6年(754年)の鑑真一行の入朝である。この時から、日本における仏教が単なる学問でなく、教団としての体裁を整えることになる。

ところで、この十師による授戒とは別に、梵網戒というものによって比丘になれるという制度もあった。これは比叡山延暦寺の開祖最澄が朝廷に申請し、その没後認可され、822年に始まったものである。
これは最澄の始めた天台宗の僧だけに適用され、他宗はなおも十師の授戒によって出家することとなっていた。これが僧尼の世界に別の影響を及ぼすことになる。
一つは年齢制限で、諸宗においては、比丘になるには20歳以上という年齢制限があるが、天台宗では緩和され15、6歳でも比丘になれた。
もう一つは比丘尼の成立である。比丘尼は十人の比丘の授戒を経て、さらに十人の比丘尼から授戒しなければならないが、鑑真に随伴した比丘尼は3人に過ぎなかった。
一方で天台宗においては、比叡山は女人禁制とされるが、麓の天台寺院に比丘尼戒壇を建立することで比丘尼の授戒が可能となった。
このようにして再スタートを切った日本の出家制度ではあったが、鑑真後50年も経つと、すでに規律が乱れ始めていたという。
実範が規律の乱れを嘆いて12世紀はじめに唐招提寺におもむいた時には、すでに住職もなく、一人の「禿丁」が畑を耕すのみであった。
天台宗も大差はなく、12年の山篭り制度はあったが、枕草子に「おぼつかなきもの。12年の山篭りの法師の女親」とされ、下山後の持戒は疑わしい。